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【42/優斗】最善

 地元で通っていた石鍋クリニックは、いかにもな病院だった。癒しの押し売りって雰囲気が嫌いだった。  それに比べて、転院先は悪くなかった。住宅街に馴染んだ外観も気に入っていたし、先生にも好感がもてた。 「ラベンダーとベルガモット、どっちにする?」  両手に持った小瓶をこちらに向けて無邪気に笑うのは、カウンセラーの泉さん。 くしゃっと笑った時にできる目尻のシワが可愛いなんて言ったら失礼かもしれないが、若くて同性だからこそ、話しやすいのかもしれなかった。 「別に、どっちでもいいですよ」 「じゃあ、ラベンダーにしよう」  泉さんは細いストライプ柄のシャツの腕をまくると、アロマディフューザーにオイルを入れた。やがてラベンダーの香りに包まれると、少しだけ気分が落ち着くような気がした。 「そうそう、先日ついにユウ君と話せたよ」  泉さんは戸棚に小瓶をしまうと、嬉しそうに振り返った。 「ユウ君も納得しないと叶わないからね。話せて本当に良かった」  そしてティーディスペンサーに紙コップをセットして、ホットの緑茶ボタンを押した。 「ユウは協力的なんですか?」 「少なくとも、歩み寄る気になったからカウンセリングに来てくれたんじゃないかな?」 「なるほど……」 「出だしは良好だから安心して」  泉さんはウインクしながら紙コップを差し出す。僕はそれを受け取りながら頷いた。 「ところで先週の続きだけど――」 ***  カウンセリングから帰り、玄関のドアを開けると、だしの香りが優しく漂っていた。家に帰ってこの香りがすると、僕は泣きたくなるほどほっとする。 「おかえり」 「ただいま」  部屋に鞄を投げ入れて、そのままキッチンのテーブルに座った。 「うどん?」  カウンター越しの和馬は顔を上げて笑った。 「もう出来るから、手洗えよ」 「はーい」  立ち上がり、洗面所へと足を踏み出す。  何気ないやりとりや、いつもの笑顔、僕はそれが嬉しかった。 「あ、ついでに蒼生に声かけてくれ」  和馬のその言葉に一瞬動揺しつつ、蒼生の部屋の前で足を止めた。  ここ数日、僕は蒼生を避けている。嫌いなわけではなくて、どう付き合うべきなのか分からなくなっていたからだ。  やがて、ノックをしなくても、ドアは開いた。 「おかえり」 「たっ……ただいま……」  つい、顔を伏せる。 「部屋から出てもいいかな?」 「あ、ご、ごめ……」  慌てて後退した。蒼生が歩いていくのを、呆けたように眺める。サーと水の流れる音で我に返り洗面所へ向かうと、蒼生は顔を洗い終えたところだった。  場所を譲られて洗面台の前に立つと、僕は蛇口のレバーを上げた。 「俺を避けてるよね」 「えっ? そ、そんなこと……」  ふいに図星を突かれ、心臓が跳ねた。  顔を上げて、鏡越しに蒼生を見る。雫の残った睫毛を見ると、あの夜を思い出し、胸が締め付けられた。  気まずさに耐えられず、泡をつけただけの手を急いで流す。 「俺が悪かったよ……ごめんね」  蒼生はそう言って、僕の後ろから洗面台に手をついた。触れられていないのに、抱きしめられているような錯覚に陥る。 「あ、あれは僕が悪かったんだから、あおぴーは謝る必要ないからっ……ごめん……」 「いや、優斗は気を遣ってくれただけなのに……どうかしてたよ。仲直りしてもらえるかい?」 「そもそも喧嘩したわけじゃないし……」  蒼生の手が伸びて、蛇口のレバーを下げる。水が止まると、泡がすっかり流れ落ちていたことに気がついた。 「なら、一緒にうどんを食べても良いかな?」 「うん、もちろん……」  僕が余計なことをしたからああなった。どう考えても悪いのは僕だ。なのに、いつも通りの優しい微笑み――責められるよりも、辛かった。 ***  食後、僕はベッドにもたれて座っていた。そして、机に向かう和馬の背中を眺めながら、頭の中で話したい事をまとめていた。 「何か話したい事でもあるのか?」  やがて、和馬は書類を鞄にしまいながらそう言った。  和馬は意外と鋭い。僕は素直に口を開いた。 「和馬は蒼生のこと、どう思ってる?」 「どうって――」  伸びをして立ち上がり、僕の隣にどかっと座る。大きな手が、僕の頭をくしゃくしゃと撫でた。 「嫌いなヤツと一生に住んだりしないだろ」 「そう、だけど、でも、最近の蒼生は無理してるってゆーか……なんか放っておいたら病んでしまいそうというか……今の僕たちの関係は限界なのかなって……」  結局まとまらなかった考えをそのまま口にすると、和馬は心配そうに僕を覗き込んだ。 「温泉で何かあったのか?」 「何かあったってゆーか……話した。蒼生は、きっとまだユウを半分しか自分のものにできていないように感じているんだ。もう半分は僕……でね、思ったんだけど、和馬も僕だけじゃなくてユウが欲しいの?」 「おい」  和馬が僕の肩を掴む。表情は険しかった。 「蒼生に口説かれたのか?」 「そうじゃなくて、ただ……」  あの夜、僕たちの関係は長続きさせるべきじゃないと感じた。僕かユウ、どちらかが譲らなければいけない日が、きっと来る。  ユウは僕のために生まれてくれた。なら、僕が諦めて蒼生を好きになる努力をするべきなのかもしれないと思った。蒼生は僕のことも大切にしてくれるだろうし、きっと好きになれる……ここ数日、そう思い込もうと考えてもみたけれど無理だった。和馬の姿を一目見れば、そんな考えは一瞬で消え去るからだ。 「ユウも和馬のことを好きになってくれたら、蒼生を解放してあげられるのにって思ったというか……」  なら、こうするしかないという案が浮かんだ。ユウが和馬を好きになってくれたなら、そして和馬がユウを好きになってくれたなら……考えるだけで胸が張り裂けそうだったけれど、それが最善の策に思えた。 「和馬はユウとも付き合うのはアリ?」 「ユウは優斗の一部みたいなもんだし、アリだけど……」 「そっか……良かっ……た」  僕は目を閉じて、涙を堪えた。自分で言いだしたくせに、和馬の答えに傷ついたからだ。  カウンセリングを受けて、ユウと僕は同じ人間だと思う努力をしているけれど、頭では理解していても、気持ちは追いついていなかった。 「……なぁ」  和馬の手が僕の顎をつかむ。そして、少しだけ上を向くよう誘導した。  目を開くのと、唇に柔らかな感触を感じるのが同時だった。優しくて穏やかで、身体全体に安心が広がる……そんなキスに満たされて、堪えていた涙が一気に溢れた。 「安心しろ、オレはユウを口説かない」 「かずっ、まぁ……」 「蒼生に何を言われたか知らないが、しっかりオレだけを見てろ」  声がうまく出せず、代わりに何度も頷いた。 「オレは今、妬いてる……だから許せよ」  優しくゆっくりとしたキスは、だんだん深く激しいものに変わっていく。言葉では決して伝わらないものを与え合うように、舌を絡ませた。

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