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【46/蒼生】後悔
約2年後――
「少し、話せませんか?」
それは神永さんからの、突然のメールだった。
俺はベランダに出て、金木犀の香りを感じながら通話ボタンを押した。
「もしもし、急にすみません」
「いえ、お久しぶりです。お元気でしたか?」
「相変わらずです」
軽く近況を伝え合いながら、俺は街を見下ろした。光の粒は、日によって姿を変えるんだ。今日はなんだか無機質に感じられた。
「で、どうしたんです?」
やがて、俺から話を切り出した。
「和馬くんにいくらアピールしても無駄なんだと、やっと気づきました」
弱音を耳にしても、俺は驚かなかった。神永さんが俺に用があるとすれば、和馬くんの事だなんて分かりきっているし、それが上手くいっていない事も知っていたからね。
「そもそも、逆だったんですよ」
「逆?」
「ええ、優斗くんがいる限り、彼は優斗くんしか見ようとしません」
確かに、和馬くんは優斗にしか興味がない。あれだけ盲目的な姿を目にしながら想い続けてきた神永さんは、逆に凄いと思っていたよ。
「和馬くんは優しいですから、自分から病気の優斗くんを捨てられません。そこで気づいたんです、優斗くんに捨てさせればいいんですよ」
また、とんでもない事をさらりと……連絡先を交換したあの日から2年半、この人はいつもこうだった。
「確かにそうですけど、優斗だって和馬くんにベッタリですよ? 難しいと思います」
「今までは難しかったと思います。でも今なら……試してみたい事があるんです」
「試したい事って?」
「私と和馬くんのデートを、優斗くんに目撃させてほしいんです。場所と時間を指定しますから、連れてきていただけませんか?」
神永さんの作戦は失敗ばかりだ。だから今回も、神永さんの気が済むならと協力することにしたよ。
「わかりました、いいですよ」
「ありがとうございます、では後ほどメールしますね」
嬉しそうな神永さんの声を聞きながら、俺は複雑な気持ちになった。
1つの身体で2人の恋人がいることを、優斗は今でも気にしているからね。神永さんの作戦が成功することは、優斗を救うことにもなると思った。それに、優斗と和馬くんがこの程度の小細工で壊れるなら、その程度の関係だってことだし、何も気にすることはないよね。
でも、自分が悪役になったような気持ちが、どうしても拭えなかった。
***
「柊さん、蒼生です」
優斗が俺を紹介すると、柊さんは勢いよく距離を詰めてきた。
「よろしく」
力強い目だった。ちなみに、まだ差し出してもいない手を強引に握ってきたその握力も、強かった。
「こちらこそ」
「飛び入り参加して悪いな、でも、人数多い方が盛り上がるだろ?」
「そうですね」
解放された手を、開いたり閉じたりする。良く思われていないのかと思い表情を確認したけれど、悪気はなさそうだったよ。
「いつも優斗とユウから話は聞いていたし、駅で何度か見かけたことはあるけれど……こうやって話すのは初めてですね」
「確かにあおぴーの言う通りだ。なんでずっと会う機会がなかったんだろう?」
「ま、今日会えたし、いいじゃん。……あれ? 蒼生ってユウの彼氏だろ? なんで優斗と?」
今日は神永さんから指定された日。
最近ユウが色々と迷惑をかけているし、そのお詫びという名目で誘ったんだ。それをどう柊さんに説明しようか、一瞬悩んだのだけれど――
「一緒に住んでるし、普通に友達です」
優斗が答えてくれたよ。
「へぇ、仲良いんだな」
品定めするように顔を近づけてくる。柊さんの髪からは、煙草の香りがした。
「で、今から行くのってハイヴだろ? 蒼生って良い趣味してんじゃん」
「知り合いに教えてもらっただけですよ。行くのは初めてです」
「そっか。サッカーと酒を楽しむなら、俺は断然ハイヴ派だな。だから付いてきた。早く行こうぜ」
優斗が柊さんを連れてきたのは誤算だったが、計画に支障はないと思う。俺は微笑んで同意した。
***
店内のカウンターで注文と支払いを済ませ、瓶を2本受け取った。奥の丸テーブルで待つ優斗に近づくと、瓶を1本手渡す。
カウンターチェアに座り、レモンを瓶の中へ押し込んだところで、フィッシュ&チップスとナッツがテーブルに届いた。
「さ、食べようか」
「うん」
店内の巨大なスクリーンでは、チェコとイタリアが戦っていた。柊さんは隣のテーブルの外国人と早くも仲良くなり、ビールを飲みながらサッカーに夢中だった。
「あおぴーって、サッカーが好きなの?」
優斗がナッツに手を伸ばしながら言った。
「嫌いじゃないけど、特別好きでもないかな。こういうお店を一度体験してみたかっただけなんだ」
俺は瓶を傾けながら、店内を見回した。まだ神永さんも和馬くんもいない。
「そっか」
「ごめん、こういう雰囲気は苦手だよね?」
「大丈夫、初めてで驚いてるだけ」
と、言ってはくれたけれど、優斗の表情には早くも疲れが見えたよ。
神永さんからサッカー観戦のできるお店だと言われてもピンとこなかったんだ。まさかこんなにも騒がしいお店だとは……きちんと事前に調べるべきだったと後悔していた。
「ねぇ」
「ん?」
「ユウは何かの賞をとったんでしょ?」
「あぁ、投稿サイトのコンテストのことだね。先週、ユウと一緒にピザとケーキでお祝いしたよ」
受賞の案内を目にした瞬間を思い出す。ユウは、信じられないほどの偉業を成し遂げてくれた。
「ユウは凄いよね、やりたい事を見つけて、結果まで出しちゃった」
「そうだね。この2年間、ユウは色々と勉強もして、頑張ってきたからね」
「やっぱ僕とユウは別人だ」
優斗は瓶に口をつけた。
「僕は本を読むのも苦手だし、作文も嫌いだった。ユウは僕と違って友達も多いみたいだし、何もかもが違う……」
炭酸の泡を見つめながら、そう呟いた。
ユウの成功は優斗の成功でもあると、俺は思っている。だから自分とユウを比べて落ち込む必要はないと分かってほしかったんだ。だけど、何をどう言葉にしても、優斗には響かなかったよ。
「きっかけはユウだったけどね、俺は確かに君自身に惹かれているんだ。それは忘れないでほしい」
「僕のどこに惹かれているの?」
「ユウが太陽の眩しい光なら、優斗は優しい月明かり……2つで1つだけれど、それぞれに確かな魅力があるよ」
上手く例えられたと思ったんだけどね、優斗は弱々しく笑った。
「月は好きだ。でも、どちらかといえば、主役は太陽だよね」
「どちらも主役さ」
「月なんて、太陽のオマケだよ……」
慣れないお酒のせいなのか、優斗はどんどん自虐的になっていった。
しばらくして瓶を取りあげようとしたその時、店内を歩く見慣れた2人に目を奪われた。
俺につられて、優斗も振り向く――
「和馬……?」
向こうはこちらに気づいていない。ドリンクを手にした2人は、俺たちから少し離れた場所に落ち着いた。そこはテーブルがあるだけのスタンディングエリアだった。
歓声の激しいそのエリアは、恐らく頬を寄せ合わなければ声が届かないんだ。薄暗い店内で、和馬くんと神永さんのシルエットはキスをしているようにも見えた。
「……っ」
突然、優斗は頭をおさえながら、テーブルにもたれた。
「優斗?」
苦しそうに肩を上下させている。俺は慌てて優斗を支え、背中を撫でた。
「大丈夫かい?」
「……っ、あ……」
「おい、どうした?」
いつの間に戻ってきたのか、柊さんが俺の肩を掴む。
「実はあそこに優斗の彼氏が……見た途端こうなってしまって……」
「彼氏ってどれだ?」
「あのパーカーを着てる彼だけど――」
俺は和馬くんを指差した。
「あいつかっ」
止める間もなく、柊さんは動いた。追いかけようか一瞬迷ったけれど、今は優斗の方が大事だからね、視線を戻した。
「優斗、大丈夫?」
汗を滲ませて、俺を見上げる。その目は――
「……ユウ?」
ユウだった。
「蒼生、優斗が……ボクは優斗をっ……」
そして、ユウの目に涙が浮かぶ。俺は取り返しのつかない事をしてしまったのかもしれない。
やり場のない後悔が、胸を締めつけた。
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