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【49/ユウ】恋文

 自分の持ち物に貼られた名札、身分証明証、職場や病院で呼ばれる名前……みんなが当然のように持っているものを、ボクは持っていない。  ボクはただ、自分に与えられた環境の中で、人生を楽しむための努力をしただけだ。それだけなのに、どうしてこうなったんだろう?  普通に暮らしたいだけなのに、そもそもボクの身体は普通じゃなかった。長年ボクはボクだと騒いできたけど、その先にあったのは、ボクが諦めるしかないという現実だった。 *** 「蒼生、話がある」  和馬くんが蒼生をリビングへ呼んだ。キッチンのテーブルに、和馬と蒼生が向かい合って座る。ボクが和馬くんの隣に座ると、蒼生は少し戸惑いの表情を浮かべた。 「事情が変わった」 「どういうことだい?」  和馬くんがボクの背中に手を添えた。 「こいつは優斗とユウ、どっちだと思う?」 「ユウの目だ……ユウじゃないのかい?」 「そうだけど、そうじゃない」  2人から説明を求める視線を感じて、ボクは口を開いた。 「この前、ユウとボクが短時間に何度も交代したことがあったでしょ? あの日、ボク達の間にあった壁にヒビが入って、感情とか記憶が漏れたというか……混ざった」  これは事実だ。あのお店で優斗が和馬くんを見た瞬間、ボク達の中で何かが弾けた。言葉にするのは難しいんだけど……優斗が抱える闇に包まれて、ボクは涙が止まらなかったんだ。 「混ざったって、大丈夫なのかい?」  蒼生が心配そうにボクを覗きこむ。胸が痛んだ。 「まだ少し混乱してるよ。でも、ユウの気持ちが分かるようになって、欠けていた記憶も少し埋まって……統合されたみたいな……」  ボクは優斗のフリをした。蒼生に嘘をつくのは苦しかったけど、優斗が残した動画を思い出せば耐えられた。 「つまり、ボクは優斗だ」  ハッキリとそう言った。 「ここ数日、ユウを見てないだろ? ユウっぽい顔をする時もあるが、ユウではない」  和馬くんが言葉を付け足す。 「ユウと混ざってる状態の時はまだまだ記憶が欠けちゃうし、前とあまり変わらないと言えば変わらないんだけど……」 「統合され始めたなって、今日病院で言われたんだよな?」 「うん」  これはボクと和馬くんで考えた設定だった。混ざったのは不安定だったあの時だけの話で、今はいつも通りのボクと優斗だった。 「完全なユウはもう出てこないと思う……ごめん」  ボクは俯き、目の奥に込み上げてくるものを必死に堪えた。 「ユウ、俺の目を見て」  蒼生は静かにそう言った。 「ユウなんだろう?」  それは優しい声だった。  思わず顔を上げて、蒼生の目を見る。涙が一気に溢れ出た。 「ユウじゃない……」 「なら、何故泣くのかな?」 「だって、ユウの気持ちも持ってるからっ……」  ギリギリのところで言い訳をした。  和馬くんがボクの膝に手を置く。 「優斗、あとは2人で話す」 「うん……」  ボクは逃げるように部屋へ戻った。 ***  蒼生はボクと別れる事に納得していない。それに、引っ越すにしても就職先が決まらないと難しいし、家の契約更改まで1年もある。だからあと1年は一緒に暮らすことになった。  目に入らなければ過去になるのに……蒼生が近くにいるのに触れられない。苦しくて、苦しくて、おかしくなりそうだった。  だからボクは、現実から逃れるように小説を書き続けた。 *** 数ヶ月後――  夜、そっと和馬くんの腕から抜け出し、自分の部屋に戻ろうとドアを開けた。 「ユウ?」  リビングには蒼生がいた。 「優斗だよ」  ボクは胸に痛みを感じながら、いつもの嘘をついた。 「なら、和馬くんと喧嘩でもしたのかい?」 「ううん、和馬の寝相が悪かったから……」 「なるほどね」  蒼生は哀しげに笑った。 「少し、話してもいいかな?」 「えっと……」 「話すだけだから、ね?」  そう言ってソファに座り、隣をぽんぽんと叩いた。僕は躊躇いつつ、隣に座った。 「前に、ユウと優斗が混ざったって、言っていたよね?」 「うん」 「なら、君はユウでもあるのに、何故俺のことを1ミリも求めてくれないんだろう……」  そう言われると、ボクの気持ちが優斗に負けたみたいで嫌だった。でも、言い返すことはできない。だから精一杯の言い訳をした。 「ユウの気持ちも痛いほど分かるよ。思い出や感情を共有しているから、惹かれないと言ったら嘘になる。でもボクは和馬のために、その気持ちを無視したいんだ。ごめん……」  眉根を寄せる蒼生。あれからずっと、蒼生は苦しんでいた。 「いつかこんな日が来るかもしれないって、考えたことはあったけどね。まさかこんなに早く来るとはね」  蒼生は両手で頭を抱えた。 「優斗の顔を見る度に、君の中のユウを探してしまうんだ」  震える蒼生を、抱きしめてあげたかった。こうなることを選んだのは自分なのに、苦しめているのは自分なのに……。 「なるべくボクを見ないようにしなよ。ボクも蒼生を見ないようにするから……お互いのために、距離を置いた方が良いと思う」  無意識のうちに伸びていこうとした手を握り締めて、そう答えた。 「……蒼生?」  蒼生が呟く。ボクは、つい蒼生と呼んでしまったことに気づいた。 「えっと……ボ、ボクもう寝なくちゃ」  慌てて立ち上がろうとした。でも、蒼生に肩を押さえつけられてしまい、逃げられなかった。 「やっぱり、ユウなんだね?」 「違う、優斗だからっ」 「いや、ユウだ。俺が間違えるわけがないだろう? なぜ優斗のフリをするんだい?」  蒼生がボクの目を覗きこむ。その目はボクを求めていた。 「フリじゃなっ……は、離してっ」 「ねぇ、とりあえずキスをしようか」 「え、な、なんで?」 「確かめたいんだ」 「何を?」 「君の気持ちを、ね」  それは昔、ボクが蒼生に言ったことのある言葉だった。  蒼生は今、ボクを試している。 「嫌だと言ったら?」 「でも、君は断らない」 「なんでそう思うの?」 「すれば分かるさ……」  蒼生はボクの肩を掴み、強引に引き寄せて唇を重ねた。ボクは慌てて蒼生をつき飛ばし、部屋へ駆け込んだ。そして、ベッドの中で泣いた。  そのキスは、ボクにかけられていた魔法を解いてしまった。ボクは気づいてしまったんだ。蒼生のことを今でも大好きだと……。何をどうしたって、和馬くんに何度抱かれたって、ボクは蒼生を忘れられない。  でも今更、引き返せないことも分かっていた。だって、ボクは蒼生を裏切ったから。  なぜボクが蒼生を諦めなくちゃいけないのかを、再認識する必要があった。本当は動画を見たかったけど、優斗があの後すぐに消してしまったから、ボクはそれを脳内で再生した。優斗のことを考えて、目的を見失わないようにしなければ……覚悟していたはずなのに、苦しくて哀しくて、胸が張り裂けそうだった。 *** さらに数ヶ月後―― 「これで全部か?」  和馬が段ボールを手渡した。 「そうだね」 「荷物、少ないな」 「家具も家電も向こうで買うからね」 「……悪いな」 「いや、俺の方こそありがとう。全てを一新して、頑張るよ」 「あぁ、元気でな」 「和馬くんも元気でね」  少し早いけど、蒼生は引越すことになった。荷物が少ないから引越し業者は使わない。蒼生のお兄さんが車で迎えに来てくれていた。 「優斗、和馬くんと喧嘩したら俺のところにおいで」 「えっと……」 「蒼生!」 「ははっ、冗談だよ。末永くお幸せにね」 「落ち着いたら連絡してくれ」 「そうするよ」  最後の箱を積み込むと、蒼生はトランクを閉めた。  蒼生がいなくなる……早く忘れなくちゃいけないという気持ちと、忘れたくない気持ちで揺れていた。離れなくちゃいけないのに、引き止めたくて胸が苦しい。  涙を堪えるのに必死だった。 「優斗、最後にいいかな?」 「なに?」 「ユウに話しかけたい」 「……わかった」  蒼生がボクの目の奥を覗く。ボクも真っ直ぐ見つめ返した。 「ユウ、今までありがとう。君と出会えたことに俺は感謝しているんだ。君も、元気でね」  それだけだった。でも、シンプルな言葉には色々な想いが詰まっていた。  涙が溢れる。 「ユ……ユウが反応してるね……」  ボクは笑って誤魔化した。 「ユウと優斗が笑って過ごせるよう、願っているよ」  蒼生は微笑み、ボクの頭にぽんぽんと優しく手を乗せた。 「ありがとう」 「じゃあ、元気でね」  蒼生は助手席に乗り込んだ。  蒼生が行ってしまう……ボクは叫びたかった。ボクがユウだと言って、蒼生の胸に飛び込みたかった。何もかも忘れて、自分のためだけに生きてみたかった。  でも、動かなかった。ボクは蒼生を裏切ったし、諦めると決めたからだ。ここで叫んだら全てが無駄になるし、もう優斗を無視したくないと思っていた。優斗を無視することは、自分の死にもつながるからだ。  ボクはボクの身体を持たない以上、本当に欲しいものは諦めるしかなかった。 ***  ボクには小説がある。現実で一緒になれないなら、本の中で幸せになればいい。その日からボクは、恋愛小説を書き始めた。  それは、蒼生に対するラブレターみたいなものだった。ペンネームもアカウントも変えた。だから伝わるわけはないんだけど……いつかそこに彼が辿り着いて、何か感じてくれたら嬉しいなと願い、書き続けたんだ。

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