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3話

「買い忘れたものはないな」  皐月の家から自動車で10分の距離にある「さくらんぼ」は、特売商品が売り切れないスーパーである。  かごに入れたものを指差し、買い物リストの品目の左側にレ点が打ってあるのを確認する。ボロボロの布製の筆箱から黒のボールペンを取り出し、フリーハンドで取り消し線を引く。 「さて、レジに行こう」  ため息交じりの言葉が漏らしながら、黒い斜めかけカバンの肩ひもを直す。いぶかし気に通り過ぎる人を無視して、歩いていると、見知った人を見かけた。 「いいなあ」  社長である遠峯潤(とおみねじゅん)と中性的な人物が仲睦まじい様子で、言葉を交わしながら食べ物を選んでいる。サファイアブルーの瞳が宝石に見え、異邦人みたいだ。記憶に残る。長年連れ添った雰囲気がまた素敵であこがれる。  結婚に失敗していなければ、妻とああしていたのだろうか。幸せかどうかなど当事者しかわからないのに、羨んでしまう自分がむなしくて、悲しい。  それを見なかったフリをして、精算する。スーパーの外のひさしから空を見ると、真黒な雲が空を覆いつくしている。しけった空気が身体を包み込み、じっとりと汗がにじむ。時折吹く風に雨の匂いが混じっている。  朝のニュースで降水確率90パーセントだと気象予報士が言っていた。  駐車場の端に停めた愛車まで行く道筋を頭の中で考えていると、ぽつりぽつりと大粒の雨がひさしを叩く。あっという間に音を立て、ワイパーをフル稼働しても前が見えないほどの篠突く雨に変わっていった。 「傘持ってこればよかった」  何度目かわからないため息をつき、愛車に駆け寄ろうと足を踏み出した。雨に気を取られ駐車場内に侵入してくる車がいることをすっかり失念していた刹那、  自動車のライトと車体が白いベールを切り裂いた。が、恐怖でとっさの判断ができず、立ちすくんでしまう。 「危ない‼」  男性の切羽詰まった声と同時に、何か温かく硬いものに包まれて、身体が横に飛ぶ。車の急ブレーキ音とけたたましいクラクションの音が聞こえた。 レジバッグは数メートル先に飛ばされていて、特売の卵といつもの安い豆腐は無事じゃないだろう。  ケガはなく、打撲程度で済んだらしい。濡れたアスファルトと雨のせいで、いたるところが濡れている。背中に伝う体温と鼓動に、恐る恐る後ろを振り返った。 「嵐さん? どうしてここに?」 「皐月さんが来るって言ったでしょう? 心配だから来ちゃいました」  来ちゃいました、か。否、来なくていいよ。と命の恩人に内心突っ込む。  くりくりとした二重まぶたがドアップで映る。  土砂降りの雨の中、このままずっとこうしていたい。 「ケガしてませんか?」 「助けてくれてありがとうございます。おかげで、ケガ一つなく済みました」 「服、濡れてしまいましたよね? 俺の家、そこだから行きませんか?」 「その前に、妻に連絡していいですか?」  妻という単語が出た瞬間、彼の表情がこわばり、すうっと顔色をなくした。 「メールだけにしませんか? 皐月さん、すっごく怯えてる」  そりゃあ、悪の大魔王に丸腰で対峙するのだから、胃痛がひどくなり、縮こまるのは当たり前だ。 「俺が打ってあげましょうか?」  素直にスマートフォンを渡した。右手の親指だけで打っている皐月とは違い、ものすごいスピードで打っていく。ものの数分で打ち終え、皐月に返した。 「誤解してほしくないんだけど、もう妻との婚姻関係は破綻しています。その、世間体を考えて今の形をとっているだけなので、」 「別れてくださいよ。皐月さんに片想いしている人に渡してくださいよ! ズルいですよ、皐月さん」  駄々っ子のように皐月に抱きつく。今は雨のおかげで隠れている。  もしかして、社長に見られているかもしれない、誰かに不審に思われているかもしれない。でも、もっとこうしていたい。  取り繕っているもの全部、雨に流されて、丸裸にされているような感覚。自分の性的指向や想いがあふれてきてしまいそうで、身を震わせた。それを嵐は、雨に濡れて体温が低下したと考えたようだ。 「えっ?」 「来てください」 「えっ、ちょっと、嵐さん? 車、車!」  手首をつかまれ、強引に引っ張られていった。

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