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5話

「君、君。そこ、僕の特等席なんだけど」 「すみません」  とっさに謝った学生――20代くらいだろう――の目元は甘く腫れぼったい。腕を上に上げ、持っていた傘を半分貸してあげた。途端、光を失った明るい茶色の瞳が皐月を映す。10センチ以上背が高い。 「ここに来ると落ち着くでしょう。交通量の多い道路のすぐ上だから、落ちたら死ねるかなとか考えない?」  雨の歩道橋で傘もささずにたたずんでいる後ろ姿が自分と似た雰囲気をしていて、放っておけなくて声をかけた。妻になじられ、死にたくなるとここに来るのだ。 「確かに考えますね」 「どうしたの? 僕はね、なじられて死にたくなったからここに来たんだ」  濡れた手すりがさびていないか確認し、もたれかかった。 「大変ですね、俺たち。彼女に浮気された上に、司法試験に合格できなくて、これからの進路も見当たらなくて、彷徨っていたらここにたどり着いたんです」 「色々頑張ったね、偉いよ。弁護士を目指していたんですか?」 「そうです。俺、両親が離婚した時の弁護士の姿にあこがれて、弁護士になりたかったんですけどね」 「なら、社労士は?」 「社労士ですか」  笑えていない笑顔が痛々しくて、庇護欲をかき立てる。それでいて、くしゃくしゃな顔が眩しくて、鼓動が速る。 「いいなあ、若いって。やり直したいな」 「今日の自分は明日の自分よりも若いんですから、変えましょうよ。ね!」  通りすがりの人の独り言すら、前向きにとらえられる明るい彼。冷たくて大きな手が偶然触れた瞬間、何かが弾け飛ぶ。 「う、うん」  瞬間、ぱあっと雲が切れ、青空がのぞいたような感覚だった。上司から紹介されていたアパートに住もう。逃げるための一歩を踏み出そう。 「伯父さんの店で何か飲んでください。相談に乗ってもらったお礼です」 「いいのかい?」 「いいですよ。早く」  それで、あの店に連れて行ってもらったんだっけ。苦いだけだと思っていたコーヒーが甘みとフルーティーさがあり、おいしくて驚いて……。  彼といると、世界が鮮やかだった。置き忘れてきた感情を激しく揺すぶられる。 (彼の名前が知りたくて、接点が欲しくてあの店に来ていたんだ)  あの時と同じコーヒーの匂いが鼻腔をくすぐる。夢か現かわからず目を瞬かせると、 「皐月さん、朝ご飯食べませんか? 牛乳多めのコーヒーもありますよ」  エプロン姿の嵐がベッドの端に座り、皐月の顔をじっと見つめている。視線と触れてくる指先が甘く熱い。 「ありがとう」  ということは、あの大学生は嵐だったのか? 「嵐さん。歩道橋にたたずんでいた学生はあなたですか? あの店に連れて行ってくれましたよね?」  寂しそうな学生はどこにもいない。でも、あの頃のように膝を抱えて動こうとしない自分はいる。今自分にできることは、ただ一つ。 「やっと思い出してくれたんですか? ああ、長かった」 「言ってくださいよ。すぐ思い出せたのにさ」  意地悪だと呟くと、音を立ててキスされた。 「忘れていた皐月さんが悪いですよ。昨日もあんなに煽って」 「あれは事故だ。早く忘れてください」 「なんでですか?」  納得いかないという顔をされ、触るとは違う愛撫の手つきに憶えたての快楽を思い出し、肌が震える。が、顔をしかめながら腰をさすった。 「私と嵐さんは、10以上違うんですから、労わってくださいね」 「じゃあ、嵐さんって呼び方をやめたら、なしにしてあげます」 「嵐」  他人行儀な言葉をなくすだけで、恥ずかしさとぎこちなさと自分のものになった感覚がする。 「ダメですね、俺。我慢できないみたいで」  赤面してうろたえている。ゆっくりとベッドの上で座りキスをしながら、ズボンの中に手を突っ込んだ。 「皐月さん」  彼の大きくてしめった手が制止を求めるように握ってくるが、無視していじる。これが中に入っていたとはにわかに信じられないが、確かに快楽を覚え、意識を飛ばすほどよがっていたのは事実だ。 「嵐、朝飯は後でいいでしょう?」  その言葉に反応した嵐が愛おしくて、彼の存在を刻み付け溶け合った。

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