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第11話 もう、離れたくなかった
おまえんち、お父さんとお母さんいないんだってな?
ニヤニヤした顔で言われたのを、覚えている。
奥様が不倫をしたんですって。それで離婚してすぐにその相手とかけおちしたそうよ。
ヒソヒソと近所の人が囁き合っていたのを、覚えている。
母さんのことはほとんど覚えてない。写真で見るその人はとても美人で、儚げで、噂で耳にする遊びで男を変えるような女性ではなさそうだった。
お前は母さん似だ。その髪、その目、何考えてるんだかわからないところ。お前もそのうちああなるのかねぇ。
祖父母はよくそう言った。俺は子供の頃から何も期待されてなかった。ろくでなしのあばずれ女の子供として、ろくな大人にならないだろうという目で見られていた。そして俺はそれに抗う気力もなかった。
ただ。
ただ一つだけ、覚えている。
いつの事だったのか。もしかしたら夢だったのかもしれない。母さんが、俺の手を引いて、どこか花畑に連れて行ってくれたんだ。
一面の青い花が、風に吹かれて揺れていた。白いワンピースがふわりとなびいていた。母さんは俺の手を引いて、木陰で俺と一緒に座ってくれた。
「きよはる」
とても優しい声で、俺の名を呼んで、抱きしめてくれた。柔らかく微笑んでいて、あの写真よりずっと美人だった。また一緒に来ようね、きよはる。何も知らない俺は、うん、と頷いた。
それが最初で最後の、母さんの記憶だ。
母さんは、約束を守ってくれなかった。知らない男と一緒に何処かへ行って、それきり。俺とあの花畑には行ってくれなかった。
ずっと一人だった。裏切られたのだという思いは常につきまとった。みんな、母さんが悪いやつだと言った。俺もそうかもしれないと思う時もある。でも、俺には母さんがそんな酷い女には思えない。あんなに優しく俺を抱いてくれたのに、そんなに酷い事をしたなら、きっと何かそうせざるを得ない理由があったんだろう。俺は誰のことも恨めなかった。憎めなかった。きっと誰も悪くない。巡り巡って悲しいことが世界に満ちているだけだ。だから、受け入れるしかない。
そう思っていた。わかっていた。
だけど、だけど。
時々、本当に、時々。
お母さんに、会いたい。
俺は、本当に時々、泣いてしまった。
「きよはる」
名前を呼ばれてハッと目覚める。頰に手が乗せられていた。触れている感覚は無いが、ひんやりとした冷たさだけがある。視線を動かすと、柊が心配そうに俺を見ている。
「きよはる、悲しい夢でも、見たんですか……?」
大丈夫ですよ、私がそばにいます。柊が俺を安心させるように、頰を撫でるような仕草をする。反対の手で、俺の手を握るようにしている。何の感覚もない。なのに、それだけで彼の深い労りが伝わってきて、俺はたまらず飛び起きた。
「あっ、きよはる」
急に起きたら、と心配する柊をよそにテーブルへ向かい、そこに置いてあった石を手に取った。「あっ」とまた声を上げているのを無視して、それをぎゅっと握って、胸に抱く。
自分でも何がしたいのか、何故そうしているのかよくわからない。でも、たまらなかった。できることなら抱きしめられたい、そして抱きしめたい。でも柊には触れられない。俺にはこうする事しかできない。ぎゅう、と石を抱いていると、ぽろぽろ涙が溢れてきた。
何で悲しいのかわからない。俺は別段不幸な出自でも育ちでもない。親は居なかったが、祖父母に育てられて会社員にもなれた。なんの不幸もない人生だ。友達も恋人もいないが、目立ったトラブルだってない。なのにどうして、こんなに苦しいのかわからない。
「きよはる」
柊が、泣きながら石を抱いてる俺を、そっと包み込んでくれる。柊だって不安だろう、寂しいだろう、きっと死んでまでこの世に残ったんだから、辛かったんだろう。なのに柊は、俺に優しい。何も言わずに、何の弱音も吐かずに、俺のそばにいてくれる。俺の話を聞いて、俺と一緒に飯を食って、眠る俺のそばに座っている。
「……っ、ひいらぎ、」
泣いているもんだから、言葉が詰まった。
「……一緒に、いろんなところ、行こう。それで、柊を、成仏させてやる。絶対だ」
こんなによくしてくれる柊を、助けてやれないなら俺がこのつまらない人生を送ってきた意味も無い気がしてそう言った。柊は俺に触れないまま、俺のことを撫でてくれる。
「ありがとうございます、きよはる。……でも、そうなったら……、……私たち、お別れしなくてはいけません……」
それは、寂しいです。柊が呟く。そんな寂しさは、彼が長年抱えてきた孤独に比べれば、大したことじゃない。柊はきっと生前もとても優しくて純真だったんだろう。そんな人を、悪霊なんかにさせてはいけない。ちゃんと成仏させてやりたい。
「大丈夫だよ。離れていても、心は繋がってるって、いうだろ」
声が震えた。母さんは、俺を忘れてはいないだろうか? 俺のように時々苦しんだりするんだろうか。また涙が溢れてきて、俺は膝を抱えて泣いた。胸元に入れた石が少し痛かったけど、離し難かった。柊もずっとそばで抱いてくれていた。
柊が側にいて、孤独ではなくなったから。俺の心は、随分弱くなってしまったような気がした。
柊と、離れたくない。ずっと一緒に居たい。でもそれは、柊をこの世に繋ぎとめてしまう、悪いことだ。彼を幸せにしたい。その為には、この関係をいつか終わらせなければいけない。
そう考えると、何故だかまた、涙が溢れた。
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