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第13話 その日はやってきた

「お兄ちゃんは、ここだよ」  雨宮風香(あまみやふうか)という名の彼女は、高校三年生らしい。彼女に案内されて、俺たちはとある総合病院の入院病棟へやって来た。  真っ白で、何もない個室に、彼は横たわっていた。 「夏樹お兄ちゃん、お客さんだよ」  風香ちゃんはそう言って、俺を部屋の中に案内する。白いベッドの上には、黒くて長い髪の、痩せ細った青年が点滴に繋がれて眠っていた。その顔を、柊がしげしげと覗き込んでいる。瓜二つだ。 「お兄ちゃんは、階段から落ちちゃったの」  それから三年、寝たきりなの。風香ちゃんは寂しそうにそう呟いた。  雨宮夏樹(あまみやなつき)という名の彼は、幼稚園の先生だったらしい。長年の夢を叶えた矢先に、とある夜、仕事帰りの道で階段から落ちてしまい、それきり意識が戻らないという。怪我も治り、医師からは何の問題もないと言われているのに、彼は目を覚まさなかった。  そりゃ、柊がここにいるわけだから、目は覚まさないよな。  俺はそう思って柊を見た。彼は夏樹さんの事をじっと見つめていた。夏樹さんの身体は痩せ細って、見ているだけでかわいそうになる。 「お医者さんは、もう限界が近いって。点滴だけでよくもったって」  お兄ちゃん、このまま死んじゃうのかも。風香ちゃんは泣きそうな声で言って、それから首を振った。 「私、ちょっと飲み物を買ってきます」  風香ちゃんはそう言って、個室から飛び出していった。  俺は柊を見た。柊も、俺を見ている。 「……どう思う? 柊」  尋ねてみると、彼は「ううん」と首を傾げた。 「たぶん、これが私の体、ですね……」  なら、彼は生霊だ。体に戻れば、元の生活に帰れるかもしれない。それは、とてもめでたい事だ。 「じゃあ、戻ろう」 「戻るって、どうやって……」 「さあ……体に入ってみたらいいんじゃないか?」  俺だって生霊の戻し方なんてわからない。そう提案してみると、柊は夏樹さんの体に触れて、それから「あっ」と手を引っ込めた。 「この体に触れると、引き込まれるような感じがします……」  なら、体に重なれば戻れるのかもしれない。それで終わりだ。なのに、柊は怖がるように夏樹さんの体から離れて、俺の側に戻ってきた。 「どうしたんだよ、柊。やっと本当の姿が見つかったのに」  ぎゅ、と抱きつくようにしてきた柊に困惑していると、彼は不安げな顔をして俺を見た。 「だって、思い出せないんです。夏樹という人の記憶が。幼稚園の事や、妹の風香のことは思い出せたのに、どうしてこんな事になったのか、さっぱりわからないままなんです。なのにあの体に戻るのは不安で……。それに……」  あの体に戻ったら、きよはると一緒にいられなくなってしまいます。  その言葉に、俺もどきりとした。  そうだ。生きている人間に戻ったら、今のような関係ではいられない。 「今みたいに、ずっと一緒にいて、色んなところに出かけて、一緒にご飯を食べたりできなくなってしまいます……。私には私の暮らしが有って、きよはるにもきよはるの暮らしが有る……。それでは……それでは、きよはるが、また寂しくなってしまいます……」  俺は柊に出会う前の暮らしを思い出して、確かに少し寂しい気持ちになった。柊と別々の暮らしになる。そう考えると、少し胸が痛んだ。  けど、そもそも今の状態が、異常なんだ。 「柊、世の中の殆どの人はそれぞれの時間を生きて、その間で一緒にいる時間を持ってるだけなんだ。だから、柊が体を持っても、今と少し変わるだけで完全に離れ離れになるわけじゃないよ。……妹さんも心配してたろ? もうこの体は、眠ったままじゃ死んじまう。せっかく生きてる体に辿り着けたのに、死を選ぶなんてよくないよ」 「でも……」 「柊」  それでも不安げな柊に、俺は微笑んだ。 「大丈夫、俺は寂しくないよ。離れてても、心は繋がってる。そうだろ?」 「……きよはる……」  柊は不安そうだったが、俺と、夏樹さんの体を交互に見て、それから「きよはる」と俺の頰に触れた。ひやりとした冷気が、俺の頰を優しく撫でる。 「私達、ずっと一緒にいられますよね? 私……あなたのそばに居たいんです」  彼は、そう不安そうに俺に言った。  俺はずっと独りだった。だから、彼とずっと一緒にいた時間は、初めての時間で、困惑することも有った。  それでも。 「……一緒に、いられるよ、柊」  柊の不安もとてもよくわかる。俺だって、本当のことを言えば心細い。それでも、柊の帰るべき場所が見つかったなら、そこに戻らないといけない。このままでは本当に死んでしまうならなおさらだ。  柊と過ごす時間を、俺は心地良いと感じていた。だから、彼のためを思って頷いた。柊はいつものように、ふわりと微笑んで俺に抱き着く。心地良さそうに目を閉じているから、俺は初めて、彼の背中に手を伸ばした。  その輪郭に手を沿わせるように。俺も柊も、触れることはできない。まるで透明な境界が俺たちの間にあるように、互いの体に触れられない。けれど、柊があの体に戻れば、話は別だ。その時、俺たちは初めて、互いの体に触れられる。抱きしめあえる。 「きよはる」  柊が名を呼んで、俺に口付けてきた。俺は心の底から驚いて、何の反応もできなかった。ひやりとした唇の感覚だけを残して、柊は俺から離れていく。 「ありがとうございます、きよはる。大好きですよ。私、必ずあなたのそばに戻ります」  だから、少しだけ待っていてくださいね。  柊はそう微笑んで、夏樹さんの体へと向かう。 「柊」  俺はその時突然強い不安に襲われて、名を呼んで手を伸ばした。でも柊はもう覚悟を決めたようで、迷わず夏樹さんの体に馬乗りになると、その肉体に溶け込むように、体を重ねていった。  それきり、柊は姿を消してしまった。 「……ひい、らぎ」  名を呼んでも、返事はない。  しんと静まり返った個室。俺はただ、夏樹さんを見つめて立ち尽くしていた。  コンコン、とノックがして、俺は振り返る。個室に風香ちゃんが戻ってきた。ペットボトルを二本持った彼女は、「お茶で良かったですか?」と片方を俺に差し出してくる。それを受け取っていると、風香ちゃんがもう片方のペットボトルを床に落としてしまった。  ああ、と拾おうとしていると、風香ちゃんが「おにいちゃん」と呟いた。それで、俺も夏樹さんの方を見る。  彼が、目を開いていた。 「お兄ちゃん……!」  風香ちゃんが、夏樹さんの体に縋り付く。お兄ちゃん、お兄ちゃんと、それ以外の言葉を忘れたように繰り返しながら、風香ちゃんは泣いていた。そしてそんな妹の姿を見て、夏樹さんは困ったように微笑んでいた。  俺はそれをただ見つめていた。  柊は元の体に戻った。雨宮夏樹さんとして。風香ちゃんのお兄さんとして。  それは、良いことだ。柊が本当の姿を取り戻した。俺が目指していた、彼を成仏させるという目的が達せられたんだ。喜ばしい事だ。  なのに。  夏樹さんが、ゆっくりと俺を見て。  彼が、俺に微笑んで。 「ふうかの、おしりあい、ですか……?」  そう、言ったものだから。  俺は、俺は。  体が凍えるような、胸が、何かに刺されたような。  俺は、その時初めて、心の底から、絶望のようなものを、感じた。

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