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第15話

「えっ、……えっ、どうして、えっ」  目の前にいる夏樹さんが信じられず狼狽えていると、彼がふらついたので慌ててその体を支えた。彼の体は当然だが暖かくて、触れることができた。彼は貧血でも起こしたのか、力無く膝から崩れそうになったので、俺は肩を貸して「大丈夫ですか!」と声をかけるはめになった。 「……すいません、ちょっと、無理をしすぎましたね……」  夏樹さんは青白い顔でそう呟く。俺は夏樹さんをなんとかおぶった。彼は俺と身長も変わらないほどなのに、寝たきりだったからか細くて軽かった。  夏樹さんを連れてアパートの敷地に戻ると、草抜きをしていた大家が、「あら!」と声を上げる。 「どうしたの!」 「すいません、気分が悪くなっちゃったみたいで、休ませてあげてもらえませんか」 「ええ、ええ。応接室にソファがあるから、そこに」  大家は慌ててエントランスに向かった。俺もそれを追う。アパートの一階には大家が応接室に使っている小部屋があって、そのソファに夏樹さんを寝かせる。「貧血の時は、足の方を高くね」と大家がクッションやらタオルケットやら、水やらをどんどん運んできて、「病院は? 救急車がいるかしら?」と心配そうにしていた。 「夏樹さん、病院や家族には、連絡してるんですか?」  横になった夏樹さんに尋ねると、彼は「実は」と困ったように答えた。 「抜け出してきたんです」 「なんでそんな事。病院の人も、ご家族も心配しますよ。大家さん、すいませんけど、タクシーか車って……」  大家に頼むと、彼が使っている車を出せると言ってくれた。すいませんが、と頭を下げていると、「少しだけ、時間をください」と夏樹さんが言う。 「そうね、貧血が収まってからの方がいいわ。病院の名前と、あなたの名前を教えてくれる? ひとまず、一報を入れておかないと」  大家はとことん親切で、日頃の彼のことをあまりよく思っていなかった自分が情けなくなった。大家は夏樹さんから情報を聞き出すと、一階の自宅へと向かう。応接室には俺と夏樹さんだけになった。  改めて彼を見る。やはり、彼は黒い髪を除けば、柊にそっくりだった。 「……どうして、病院を抜け出したりなんか」  まだ眠りから覚めて1週間。何年も寝たきりだった人間が、そんなにすぐ歩けるようになったりするものか、俺にはわからない。まして、あの病院からここまでは距離が有る。しかも寝間着のまま徘徊してたんだ。かなり異常なことだ。 「それが、私にもよくわからないんです」  夏樹さんは、困ったようにそう言った。 「でも、どうしても行かなくてはいけない場所がある気がして。寝ても覚めても、何故だか落ち着かなくて、ついに今朝早く、病院を抜け出してしまったんです。あてもなかったのに、何故だか何処に行くべきかわかっているような、不思議な感覚で……。それで、疲れ果てていたところに、貴方が……」  私は、貴方に会いに来たのかもしれませんね。  夏樹さんがそう言うものだから、俺は言葉を失った。  夏樹さんの中に、柊は、生きているのかもしれない。 「……俺のことは、覚えていないんですよね……」 「……それは、……本当にごめんなさい。眠っていたからなのか、全く思い出せなくて……。風香から聞きました。わざわざ、私の家まで来てくれたとか……。本当に失礼なことですが、お名前を教えて頂けませんか?」 「……清晴。夜霧 清晴」  俺は、二度目の自己紹介をした。それを聞いて、夏樹さんは柔らかく微笑む。 「きよはる。綺麗な響きですね……」  ああ、その反応は、柊と同じで。俺は胸が苦しくなってきた。  彼は、柊じゃないのに、柊でもあるんだ。 「……そうでもない、です……」 「どういう漢字を書くんです?」 「……そのまんま、清らかに、晴れる。……苗字と合わせたら、夜の霧が、すっきり晴れる……」 「すてきなお名前ですね……」  ああ、その笑顔まで、彼そのものなのに。  涙が、溢れてきた。 「……あ、ああ、大丈夫ですか? 清晴さん……」  さん。さんが付いてる。柊よりは、ずっとしっかり喋っている。俺はもうダメだった。夏樹さんが心配しているのをよそに、ボロボロ泣き始めてしまった。  こんな奴、気持ち悪い。自己紹介したら急に泣き出すなんて。夏樹さんからしたら、意味がわからないだろう。なのに、夏樹さんは心配そうに、俺の事を撫でてくれた。その手のひらが、温かい。 「……やっぱり私、きっと貴方に会いに来たんですね」  ちゃんと会えてよかったです。夏樹さんがそう言う。俺はもうどうにもダメだ。考えがぐちゃぐちゃになって、涙が止まらない。  柊に会いたいと、確かに俺は願った。でも、でも、彼は夏樹さんであって、柊じゃない。だけど、確かに柊でもあるんだ。  俺の、大切な、……好きだった…………愛していた、柊と、違う人で、同じ人なんだ。  辛すぎて、胸が苦しくて、俺は大家が帰ってくるまで泣いていた。夏樹さんは、ずっと俺を撫でてくれていた。ぐずる子供をあやす幼稚園の先生の優しさで、いつまでも、いつまでも。 「また、会えますか? 清晴さん」  大家が車で夏樹さんを送っていく時。別れ際に夏樹さんがそう言った。  俺はかなりの時間悩んで、それでも。 「はい。……また、お見舞いに行きます……」  そう、答えた。  俺たちの関係は変わってしまった。それでも、変わったからと言って、断ち切れるほど俺は強くなかった。けれど、それに胸が痛くないほどにも、強くもなかった。

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