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第16話

 俺は夏樹さんのことを……、柊のことを、何も知らない。  それは柊自身が知らなかったからでもある。だとしても、あまりに何もわからないままだ。俺は柊を知るためにも、夏樹さんのことを知るべきだと思う。  だって、まだ何もわからない。仮に、階段から落ちたのが生霊になったきっかけだったとして、じゃあどうして、普通に生きていた夏樹さんがそんなことで生霊になったり、しかもあの青い石や祠に閉じ込められたりしたのか、何もわからないままじゃないか。  それに。  夏樹さんは、人として穏やかすぎる。それはとても素晴らしいことだとは思う。だけど、俺にはそれが引っかかる。  あんな真夜中の公園で一人ぼっちでいても、淋しいとも漏らさず、ここにいて欲しいとも言わなかった柊が、夏樹さんの中にもいるなら。あの性格で、現代社会に生きていたなら。  それって、ものすごく、しんどい生き方じゃないか……?  俺は、それがとても気になっていた。 「今日は暑くもなく、雨も降らない、良い気候ですね」  曇空のことをそう言って、夏樹さんは穏やかに微笑んだ。彼は病院の庭のベンチに腰掛けている。土曜とあって、庭は他の患者やその家族で賑わっていた。  俺はあれから土日に見舞いに行くことにした。また会いたいなんて言って病院を抜け出したら大変だったし、俺も彼に会いたい気持ちが有った。  お見舞いに行くと風香ちゃんが、「兄がご迷惑をおかけしました」と頭を下げてくれたりして、俺も申し訳なくなる。こんなことなら、夏樹さんから逃げたりせずに連絡先だけでも渡しておけばよかったんだと思った。  ――そう、俺は夏樹さんから、逃げたんだ。柊の姿をした、柊ではない人から。 「入院生活の楽しみは食事だけだと皆さんおっしゃるんですが、本当にそうだなと感じます。最近やっと普通の食事が食べられるようになりました。今夜はからあげらしくて、今から楽しみなんです」  リハビリを兼ねて一緒に庭を散歩して。少し休憩をと、2人でベンチに腰掛けた。前にもこうしてベンチに腰掛けて柊と話した。その事に胸がチクリとする。 「……からあげ、好きなんですね」  柊も幸せな響きだと言っていた。夏樹さんは「子供の頃から、大好物なんです」と恥ずかしそうに笑った。そういうおっとりして純真なところは柊そのままで、ますます胸が痛む。 「……夏樹さんのことを、もっと、聞いてもいいですか?」 「私のこと、ですか?」 「はい……。俺、その。夏樹さんのこと、あんまり知らなくて……。どういう方なのか、……教えてもらえたらと……」  我ながら歯切れが悪い。俺は夏樹さんを何故知っているのかについて何も言わなかった。嘘もつくのは苦手だから、問われたらどう答えていいかもわからない。ただ、夏樹さんのほうも何故だか追及してくることはなかった。 「それは、構いませんけど……、私の話なんて、大した内容ではありませんよ?」 「それでも、……それでも、夏樹さんのこと、知りたいんです」  柊が俺のことを知りたがったように。俺は夏樹さんのことを、柊のことを知りたかった。彼は「そうですねぇ……」と少し考えて、「何を話せばいいでしょうかねぇ……」とこぼしながらも、ポツリポツリと話してくれた。  夏樹さんは雨宮家の長男だ。しかし、元の苗字は違ったらしい。今の父親は夏樹さんの父ではなく、風香ちゃんの父親だ。それで、歳が離れた兄と妹になってしまった。  10歳違う妹を、夏樹さんは小さい頃から面倒を見ていたらしい。そうして子供の遊びに付き合っているうちに、保育や育児に興味を持ち、いつしか保育士または幼稚園の先生というものを志したそうだ。  それで、努力してなんとか幼稚園の先生になる夢を叶えて、半年。夏樹さんはある雨の日、階段で足を滑らせ、そして、今に至る。  夏樹さんの説明は淡々としていて、嘘も誤魔化しも無さそうだ。でもなんでだろう、俺はすごく気にかかる。そんな順風満帆だった人間が、どうして生霊になんて。しかし、そこを突っ込んで聞いていいものかどうか。 「……それにしても、どうして何年も意識が戻らなかったんですかね」  話の流れで違和感のなさそうな聞き方といえば、これしか思いつかなかった。夢を叶えて幸せだったはずなのに、意識を取り戻さなかった理由は何なのか。 「……さあ、主治医の先生は、全くわからないと言っていましたけど……」  けど。  けど、なんなんだろう。何かあるのか。  俺は夏樹さんを見つめた。彼のほうは僅かに目を伏せて、地面を見つめていた。 「……何か変わった事とか、無かったんですか? その……うまく言えないけど、前兆、みたいな……」  質問が曖昧すぎる。自分が今まで人とろくに付き合ってこなかったことを、とても後悔した。もっと上手いアプローチが有るんじゃないか。こんな変なことばかり聞いていたら、怪しまれるかもしれない。  でも、夏樹さんは嫌な顔一つせずに、俺の質問に答えてくれる。 「ううん、正直あの日の事は、少し記憶が曖昧で。……でも、そうですね、……」  夏樹さんは少しの間考えて、それから俺を見た。彼は俺の眼をじっと見ている。そんなにコミュニケーションに強くない俺に、その視線は少し辛い。それでも、目は逸らさなかった。今、逸らしてはだめだと、なんとなく思った。 「……悩みは、有ったかもしれません」  夏樹さんはそう苦笑して、空を見上げる。曇空は鈍い色で街を覆っていて、今夜は雨になるかもしれなかった。 「……でも、それは些細なことですから」  夏樹さんは目を合わせずにそう言った。だからきっと、この話をこれ以上掘り下げるのは無理だと思った。まだ会って間もない俺にここまで話してくれただけでも、夏樹さんはいい人だ。 「……中に戻りましょうか」  夏樹さんがベンチから立ち上がる。まだ体が万全ではない夏樹さんがよろめいたから、俺は咄嗟に彼の手を取って支えた。その手は触れられて、血が通っていて、温かい。  なのに、俺と彼の間には、やっぱり透明な、見えない境界が存在していた。

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