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第17話

「清晴さんのお家に行ってもいいですか?」  夏樹さんがそう言ってきたのは、彼が退院してからしばらく経った頃だった。  夏樹さんは数年寝たきりだったにしては驚くほど順調に回復した。それもこれも、あの石のせいなんだろうか。そして、退院しても俺と接点を持ちたがった。スマホも手に入れて連絡を取ってくるから、週末になると夏樹さんに会いに行った。彼のリハビリに、一緒に出かけたりもした。それはまるで、柊の正体を探していたあの頃のようだった。  それでも、夏樹さんはあくまで夏樹さんであって、柊ではなかった。とてもよく似ている。驚くほど穏やかな人で、ふわふわしていて、柊とあまり違いは感じない。それでも、彼には俺と離れたくないと言っていた柊の記憶が無い。だから、違う人間だ。  夏樹さんが俺の家に来たがった時、もしかしたらそれで何か思い出してくれるかもしれない、という気持ちが湧いた。なんでも、あの時車を出してくれた大家にお礼もしたいそうだ。俺は快く了承して、その日の為に部屋を片付けた。  その日、夏樹さんは大家へのお礼の品だという菓子折りを持って、白夜荘までやって来た。事情を聞いた大家は「気になさらなくてもいいのに」「でもお元気になったようでなによりだわ」「最初はずいぶん白かったのに」と余計な事まで言いかけたので、俺は慌てて夏樹さんを部屋に案内することになった。  大家が柊を見ていた件については、改めて確認する事にして、夏樹さんを部屋の中に入れる。久しぶりに片付けた部屋はモデルルームのように何もなくなった。しいて言えば、テーブルの上には、あの青い石が置いてある。 「荷物はその辺に適当に置いてもらって……、クッションがあるから……」  適当に座って下さい、と促すと、夏樹さんは少し落ち着かない様子でテーブルの側に座った。部屋を軽く見渡して、テーブルの上の石に目をやると、それをしげしげと見つめている。 何か思い出すか、と思ったけど、彼は「綺麗な石ですね」と言っただけだった。 「ラピスラズリ……ううん、アズライト……ですかね……」 「そんな名前なんだ……俺、石のことは何もわからなくて」 「私もあまり詳しくは……。でも、一時期風香がパワーストーンにハマって、その時に一緒に……。確かアズライトには、霊的な意味が有るとか、なんとか……」 「……霊的な」 「あっ、別に怖い意味ではありませんよ、ちょっとスピリチュアルな、神秘的な石みたいに紹介されてたような気がします」  夏樹さんはそう言って微笑んだ。結局夏樹さんが思い出せたのは、それだけのようだった。 「……ところで夏樹さん、何持って来たんですか?」  夏樹さんが妙に大きなリュックを持って来たのが気になって尋ねると、彼は「えへへ」と子供がいたずらをするような顔をして、リュックの中からチューハイを出した。 「ちょ、夏樹さん」 「家では、みんなが心配して全然飲めないんです。せっかくだから、清晴さんと飲んでみたいと思って」 「そ、そんな、俺だって心配ですよ。夏樹さん、お酒飲んでも平気なんですか?」 「こう見えても、寝る前はお酒を嗜んでたんですよ。なのに今は全く飲ませてもらえないんです。少しぐらいいいじゃないですか、ねえ」 「でも……」 「清晴さんは、お酒は飲めませんか?」  飲めるか飲めないかと言われたら、人並みには飲める。というより、最近よく飲んでいる。飲まないとやっていられなかった。誰かさんのせいで。 「……飲めますけど……」 「じゃあ、飲みましょう、ほんの少しだけでいいんです。ほら、おつまみも持って来たんですよ」  リュックの中から、チューハイの缶と、おつまみのお菓子が出てくる。ああ、と俺は頭を抱えて、それでも断ることができずに、夏樹さんと飲み交わすことになった。  なのに、どうしたことか。 「き、清晴さん、あの、」  俺は夢を見てるんだろうか? 俺は柊を押し倒していた。  床に仰向けになった柊の何故だか黒い髪が、床に広がってる。その体をぎゅっと抱きしめて、体温を確かめる。ああ、生身の人間だ。  柊に触れられたなら、こんな感じだったんだろう。あったかい。細い身体は少し固いけど、それでも肉も皮膚も柔らかい。透き通って、すり抜けたりしないし、触れたところが冷たくなったりもしない。 「清晴さん」  何故か、柊が俺をさん付けで呼ぶ。「清晴」とそれだけ言って、強く強く抱きしめる。愛しい、愛おしい。ずっと会いたかった。ずっとこうしたかった。側にいる間にできていたら、こんなに寂しい思いをすることもなかった。  俺は柊のことが、好きだったんだ。 「柊、柊……っ」  抱きしめて、耳元で名を呼ぶ。なにもかも柊が悪いんだ。あんな、別れ際で俺にキスまでして、そのままいなくなるなんて、そんなことされたら、俺は。愛しくて、悲しくて、どれだけ辛かったか。仕返しとばかりに、何かいいかけた彼の唇を塞ぐ。触れるだけのキスは柔らかい唇の感触と温もりを感じさせて、それだけで涙が出そうだった。  会いたかった、ずっとこうしたかった。 「……っ、清晴さん、やめて……ッ!」  柊が暴れる。なんでだ、お前だって望んでたのに。手を離して見ると、それは柊ではなくて夏樹さんだったし、彼は怯えたような顔で涙を流していた。 「……っ、えっ、あっ」  俺は背筋が冷たくなるのを感じた。  そうだ、俺は酒を飲んで、それで、酔って、夏樹さんを柊だと勘違いして……! 「ご、ごめんなさ、夏樹さん、俺、そんな、ごめんなさい……っ」  土下座する勢いで謝る。なんて事をしてしまったんだ。夏樹さんにしてみれば、いきなり気を許した男に襲われたことになる。怖かったろう、わけがわからなかったろう。きっと嫌われた。  そしてやはり、夏樹さんは柊ではない。いろんな事を考えて絶望的な気持ちになった。 「……清晴、さん……」  夏樹さんは、俺が平謝りするのを見て、困惑しているようだった。 「……誰かと、間違えて……?」 「すいません、本当に、ごめんなさい……!」 「……いえ……いいんです、大丈夫、それより、清晴さんは大丈夫ですか……?」  夏樹さんが心配そうに覗き込んできて、今度は俺が困惑する番だった。なにが大丈夫だ。夏樹さんは勘違いで男に犯されかけたのに、その相手を心配している。お人好しにも、危機感が無いにもほどがある。 「俺のことなんて、」 「私は平気です。……私は清晴さんが心配です、その……人間違いをしてしまうほど、会いたい人がいるんですか……?」  そう、あなたの中にいる。そんな事は言えない。俺は「はい」と頷きながら、夏樹さんを見た。涙ぐんではいるけど、少しも俺に対して警戒している風がない。なら、なんでさっき泣きながら暴れたんだ。意味がわからない。  いや、待てよ。  俺ははたと気付いた。  これが、夏樹さんの性質だとしたら。彼は自分の事を棚に上げて、誰かの心配をしてしまうような人で。自分の悩みなんてそっちのけで、人を気遣ってしまって。たとえ危害を加えてきた相手であっても、大切にしてしまうような。  そんな人、現代に生きてたら。ボロボロになるに、決まってる。 「……夏樹さん、……その、……ごめんなさい、俺は大丈夫です。……それより、その……」 「……?」 「夏樹さん、本当は……何か……隠し事をしてるんじゃ、ないですか……?」  急に何の話だ。俺は酔った自分を殴りたくなった。夏樹さんは案の定、きょとんとした顔をしている。  夏樹さんは、しばらく何も答えなかった。でも、それがある意味で、答えだった。

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