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第18話
急に何の話だ、と笑えばいい。そんなものはないと突っぱねればいい。なのに、夏樹さんはしばらく何も答えなかった。考えるように視線を動かしてばかりで、それが答えのようなものだ。彼は言うべきか否かを、考えているんだ。
「夏樹さん」
俺はその名を呼んで、促すことにした。
「俺の隠し事も、言います。だから、夏樹さんがもし何か、悩み事を隠してるんなら、俺でよかったら教えてください。俺は……俺は、夏樹さんのことが、」
好きだから。そう言いかけて、心配だからと口にした。夏樹さんは「清晴さん……」と困ったように名を呼んで、それから、ポツリとこぼした。
「悩み、というほどでもないんです……」
それから夏樹さんの言ったことは、とてもじゃないけど、悩みというほどでもない、なんてものではなかった。
夏樹さんは、本当の父親に虐待をされたことがある。
エスカレートする前に、母親が別れを決意して、最悪の事態は免れたらしい。何も悪くない夏樹さんは片親になり、それを理由に子供の頃はからかわれた。それは、俺と同じだった。
夏樹さんはシングルマザーになって頑張っている、母親に心配をかけたくなかった。だから、彼は我慢をした。学校には居場所がなかった。一人、寂れた公園でブランコに座って過ごしたりしていたという。
ある日、そんな夏樹さんに、一人の男が声をかけてきた。優しかった。一人でどうしたの、お兄さんと遊ぼう。優しい彼と遊んでもらううちに、夏樹さんは彼に打ち解け、そして本当のことを話した。話している間に、涙が止まらなくなって、泣きじゃくっていると、彼が言った。
「僕のうちに、来る?」
そこまで聞いて俺は青褪めた。最悪の展開だ。そして俺の予想は的中した。彼は幼い夏樹さんを自宅に閉じ込めて、抱きしめ、服を脱がせて、キスをした。幸い、怯えて大声で泣き喚き、それで事なきを得たと、夏樹さんは言ったけど、俺にはそれが、「事なきを得た」状態だとは思えなかった。
それで、幼い夏樹さんは思ったらしい。男の人は怖い。人に相談をすると、ろくなことがない。優しくしてくれる人には、何か裏があるのかもしれない。
そうこうするうちに、夏樹さんの母親は再婚して、子供を作った。それが今の家庭であり、夏樹さんの妹の風香ちゃんだった。
夏樹さんは新しい家庭でも大事にされたという。妹は本当に可愛かったという。妹の子守りをするのが楽しくて、仕事にしようと思ったと。それで、保育士か、幼稚園の先生になろうと思ったし、事実、そうなった。
夢を叶えたのだ。それは幸せなことのはずだった。夏樹さんを待っていたのは、忙しすぎる幼稚園の仕事と、子供達の親からくるクレームと、そして職場の同僚の、イジメだった。
「私が悪いんです。ほら、私は少し、なんていうか……頭がフワフワしているらしくて……。はっきり物も言わないし……テキパキ働いたりもできなくて……それで……、だから、……叱られたり、指導されたりは、仕方ないんです」
俺が聞いた限り、それは「指導」ではなかった。他の職員に無視され、連絡を伝えてもらえず、知らなかった夏樹さんがヘマをするとまた叱るの繰り返しだ。
夏樹さんが少々ふわっとした人であることは、俺も否定はしない。だからって、そういうことをしていい理由にはならないじゃないか。こんな優しい、真摯な人を、穏やかだからって、そんな。
そして、それが自分が悪いからだと思ってしまうような人に、そんな。
「でも、……ちょっと、疲れてしまったんです。家に帰っても、家族はみんな、私が夢を叶えたと誇らしげで……とても、言えなくて……。どうしていいかわからなくて……それで……その時……考えてしまったんです……」
消えて、無くなってしまいたい。
夏樹さんの小さな声だけが、部屋に響いた。
それが、夏樹さんが眠る前のできごとだとしたら。辛い記憶を無くしたいと思ってしまったのかもしれない。脳みそはそういう願いをまれに叶えると聞いた事がある。生活に必要な記憶を残して、思い出したくない、無かったことにしたいものだけ忘れることが。
夏樹さんはそうして、記憶喪失の生霊になってしまった。念願叶って、正当な理由で仕事を辞めることができた、というわけだ。
「……この話も……誰にもしないつもりだったんですけど……」
「俺にはしてくれたんですね……。さっき、怖い男の人たちと同じことをしてしまったのに……」
「いいえ、……あの人たちと、清晴さんは全然違いますから……。私にも何故かよくわからないんですけど、男の人はちょっと苦手なのに、清治さんにはそういうのが無いんです。一緒にいると安心するというか……。だから、私は清晴さんが優しいのも、何か裏があるのかもとは、あんまり思わないんです。何かしたとしても、きっと何か理由があるんだと思いますし……」
そういうところが、夏樹さんを不幸にしているんだ。それに、俺には裏がある。本当のことを言えば、夏樹さんを心配しているんじゃなくて、柊のことを心配しているのかもしれない。俺自身にもその境界は曖昧になってきて、本当のところはよくわからなくなってきた。
ただ、この悲しげに微笑む人に、心からの笑顔でいてほしいとは、感じる。胸が苦しくなって、夏樹さんにそれを素直に告げるべきか考えていると、彼が「あっ」と驚いたように声をあげた。
「そうです、そう! どうして忘れていたんでしょう」
「な、何? 何か思い出したんですか?」
夏樹さんは、テーブルの上を見て言った。
「そう、そんな時です。あの日、雨が降っていて。消えて無くなりたいって、溜息をつきながら、夜道を歩いている時に。階段の前で、私、拾ったんです。青くて……きれいな……そう、こんな石を」
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