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「…そろそろ客席へ行く、渋谷も戻ったほうがいいぞ」
思ったよりも冷たい声がでた自分に驚き、これ以上ここにはいられないと悟る。
さっさとコンサートホールへ向かおうと一歩踏み出した瞬間、腕を掴まれ身動きがとれない。
どうして渋谷が俺の腕を掴むんだ。意味がわからない。首だけ渋谷のほうへ向き直り「離してくれないか」と睨む。それでも渋谷は離してくれず、俺をじっと見つめてくる。この美貌に見惚れたのかと笑える余裕はなく、ただ見つめ返すことしかできない。
「……お前潰されねえ? 大丈夫?」
「だ、大丈夫に決まっているだろう、俺様を誰だと思っているんだ」
「もやしっ子」
あまりにもばっさり言い切られ、思わず小さく噴き出してしまった。俺に対してもやしと言える男は、生涯渋谷しかいないだろう。
「もやしではないぞ、引き締まった体と言ってくれ。俺様の周りは不思議とスペースが出来るから大丈夫だ」
「あー、なんか想像できるわー、お前オーラありすぎだもんな、自然と人が避けちゃう感じな。とりま、客席行くか。白金はもしかしてあの女と見るわけ?」
「あの女――あかりのことか。そうだな、いつもあかりと一緒に見ているぞ」
あかりと客席で会ったらまた殴られるかもな。
ハンカチで抑えている口元を指差して笑うと「思い出したくねえからやめろってクソが!」と渋谷は怒っているような口ぶりなのに、どこか楽しげに笑っていた。
「あー、股緩そうな女捕まえてライブ帰りに一発かまそうと思ったのになんで俺白金なんかと話し込んでんだろうな、最悪だわ」
「お、お前は本当に最低だな、もっと他のことも考えたほうがいいぞ」
「一番はバスケ、二番にセックス、それで俺の頭はいっぱいなわけ。もう他にはさける容量ねえの、わかる?」
「さっぱりわからないな――俺様のことを思い出す、ということにも時間を割いてほしいものだな」
渋谷の腕を払いのけながら言い、今度こそ一歩踏み出した。渋谷は俺の腕をもう掴んだりしなかった。
「ミチちゃん! こっちこっち!」
客席に顔を出すと、壁際でビールを飲んでいたあかりが俺にぶんぶんと手を振っているのが見える。
なかなかあかりの元へ辿り着けそうにないなと客を見つめていると、俺の視線に気づいたのか、男たちは率先して退いてくれた。
今日のようなライブ会場で俺のために道を開けてくれるのは同性である男だ。音速エアラインの女性ファン――千昭を推している『ライン担』は俺のことをあまり好まない。舌打ちをされたり、ぶつかられたり、足を踏まれたり、嫉妬を露わにされることがある。今日もまた、ライン担からの視線をひしひしと感じる。まるで、上野に嫉妬をした俺みたいだ。
ライン担を避け、道を開けてくれた男たちには「俺様のために道を作ってくれたのか? 礼を言うぞ」と口角を上げて微笑む。たったそれだけで、男たちは頬を赤く染める。俺のことをウブだと千昭はよく言うけれど、この男たちだってウブで可愛い。
「あかり、遅れてすまない――手は大丈夫か」
あかりのとなりへ立ち、まだ音速エアラインの出番ではないことを確認して、渋谷を殴ったと思われる右手をとりじっと見つめる。
美容師という職業柄、手先になにかあったら大変だというのに男を殴るとはまったくもって勇ましい。少し赤くなってはいるが、腫れてはいないように見える。ほっと胸を撫で下ろしてから、手の甲をそっと撫でた。
「ミチちゃん心配かけてごめんね。あの銀髪野郎が空くんの胸ぐら掴んだ瞬間、イラッと来ちゃってつい……その前に一発どう? とか失礼なこと言われて最低だなって思ってたし、空くん殴るとかありえないってカッとなっちゃった。いいヤツかもって思った自分がバカだった。ちょっとだけいいヤツで、かなり失礼な男!」
「確かに最低だな。あかりの気持ちにまるで寄り添っていない。ただただ自分の欲求に素直すぎる」
「あそこまで素直ってある意味うらやまだけどね! 捻くれ者の音くんやツンデレのハヤくんは見習ってほしいよね」
ちょっといいやつだけど失礼な男。
渋谷という男を実に簡潔に表している。思わず小さく笑い、視線を舞台上に向ける。荒削りだけど、客席を楽しませようと歌い、弾いているのがよくわかる。音八も、千昭も、こういう頃があったのに。
「このバンド、昔の音エアみたいじゃない?」
あかりもまた同じことを思ったのか、茶色い瞳を輝かせ舞台上で暴れるバンドマンを見つめる。
「そうだな――学園祭ライブの時を思い出す。ベースが千昭に変わったばかりで、連携は完璧とは言えなかったが、それでも観客を楽しませてくれた。それだけの熱量があの時の音速エアラインにはあった」
どうしたら、あの熱量を取り戻してくれる?
音速エアラインのライブを見るたびに、胸が苦しくなる。今日もまた、音八と千昭、隼人と空の熱量の差を感じてしまうのだろうか。
あかりの腕が腰へと回り、そっと引き寄せられる。手や足がすぐにでるが、やはりあかりは優しい女だ。
「大丈夫だよミチちゃん。今は暗いトンネルの中にいるかもしれないけど、いつか抜ける日が来るよ。ミチちゃんがちいくんの手を引っ張って、明るいところへ引きずり出してあげなよ」
千昭の手を引っ張るなんて、俺にできるのだろうか。お前の輝く場所は俺のとなりではなく、舞台の上だと行動で示せるのだろうか。口ではいくらでも言える。だけど、どうやって行動したらいい?
「……俺に、できるだろうか」
「できるよ。だってミチちゃんはちいくんのたった一人の王様でしょ。ミチちゃんにしかできないよ」
俺にしか、できない。
あかりの言葉に思わず目頭が熱くなった。気が強いあかりは、俺の前だとまるで母親のように優しい微笑みを浮かべてくれる。「あかり? あいつ、俺の前だと元ヤンまるだしだぜ」音八の笑い声がどこからか聞こえてくる気がした。
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