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「カルメンがどうかしたのか」 「日本に来ているらしい」  けっきょくカルメンがしたことといえば、白金の別荘に入り込んで、警備員を突き飛ばしただけ。千昭も、俺も、カルメンに殺されることなく生きている。あのあとカルメンがどうなったか知らないが、それほど重い罪に問われることはなかっただろう。  来日したことを千昭は知っているのだろうか、と考えてはっとした。ああ、楽屋前の廊下でキスをしていたブリュネットの女はもしかして。もう切れたと思っていたのは俺だけで、二人はずっと繋がっていたのかもしれない。なんて壮大な痴話喧嘩だ。 「そうか」 「偉く冷静な返しだな」 「カルメンと千昭がキスをしているのを見た。俺様は壮大な痴話喧嘩に巻き込まれていたのかもしれないな」  司は俺の言葉に切れ長の瞳をかすかに見開いてから、俺の髪を優しく撫で梳いてくる。 「それはどうだろうな。とにかく気をつけろよ、さすがに日本だから銃は持っていないはずだが、あの女はなにをしでかすかわからない。三千留まで地獄へ落とそうとしているが、落ちるのはあの女一人でいい」  ぞっとするほど冷たい声を出したかと思えば、次の瞬間にはけろりと笑ってみせた司はスーツを床へと脱ぎ捨てて「さて寝るか」と俺を抱きしめてくれる。久しぶりに感じる人肌が気持ちよく、思わず司の胸に顔を埋めると、どこまでも優しく俺の背中を叩いてくれた。  ああ、そうか、千昭がベッドに潜り込んでくるのは俺のためだったのかとようやくわかった。一人で眠ろうとすると、悪夢を見る俺に寄り添ってくれたのだ。千昭が離れて気がつくとは愚かな男だな、俺は。  ゆっくりと目を閉じる。司が悪夢から俺を守ってくれたのか、朝までぐっすり眠ることができた。 「げっ、白金じゃん。お前サボりとかしねえタイプじゃねえのかよ」  毎度俺の顔を見て、げっと言うのはなんなんだ。  そう思いながら、視線を美しく咲き誇る赤い薔薇から温室に入って来た渋谷へ移した。  百花の定番サボりスポットは保健室、図書室、屋上、そして屋上の温室。お気に入りは図書室と温室で、渋谷の言うところの『サボりとかしねえタイプ』ではまったくない。適度にサボり、頭をリセットさせることはなによりも大事だ。 「渋谷は温室似合わないな――そういえばお前、あの日のライブ途中で帰っただろう」 「あー……シノブに怒られたんだよ。そんで、クソ女と客席で鉢合わせにならねえために帰ったんだよ。シノブまで一緒に帰ってくれて、すっげえ悪いことしたわ」  渋谷が上野にどう怒られたのかさっぱりわからないが、気まずげに人差し指で頬を掻いている素振りを見ると激しく怒られたように思える。  飼い主にいたずらがバレ、こっぴどく叱られ反省している大型犬のようだ。可愛いなと笑い、思わず渋谷にスマホを向けて連写してしまうほどに。 「おっお前なにすんだよ!」  写真を撮られると思っていなかったのか、渋谷は顔を真っ赤にして怒る。  怒った顔もなかなか可愛い。だけど、笑った顔が見たい。上野の話をしている時はあんなに楽しそうに笑うのに、俺の前だと渋谷はいつも怒っている気がする。 「ああ、気にするな。自然にしろ、笑え」 「盗撮されて笑えるかよ!」 「盗撮がいけないのか? それなら許可をとればいいんだな? 渋谷の笑顔が見たい。俺様のために笑え」  渋谷にスマホを向けたまま、口角を上げて微笑む。渋谷はうぐっと間抜けな声を出してから「……その顔ドストライクでつれえ」と額に手を当てた。困ったように眉を下げる顔もまた可愛い。  けっきょく笑ってはくれなかったが、渋谷フォルダを作ろうと決意するほどシャッターを切っていた。 「あ、忘れてたわ――その、あー、あの時はありがとな」  なにかを思い出したように渋谷はブレザーの内ポケットに手を差し入れ、照れくさげにハンカチを差し出してくる。  ああ、そういえば口から血がでていたからと渋谷にハンカチを渡した。あれからずっと、俺に返そうとポケットに忍ばせていたのか。わざわざ教室に来るのは恥ずかしいし、ばったり会った時に返そうと思っていたのかもしれない。どこまでも可愛い男だなと笑い、ハンカチを受け取った。 「もうさすがに跡は残っていないようだな」  渋谷の口元をじっと見つめると「んなに見んじゃねえよはずいだろ!」と怒られた。  どうして俺はすぐに渋谷を怒らせてしまうのだろう。ほかの男たちは俺の前では頬を赤らめ、よく笑うというのに。千昭だって――千昭は誰よりも笑ってくれたけれど、心の奥底では俺に腹を立てていたのだろうか。  千昭の心を理解しないで、ひどい言葉を言ってきたかもしれない。知らないから傷つけていいわけじゃないと五喜に言われたのに、俺はなにもわかっていなかった。少しずつ千昭の心にヒビが入り、もう我慢の限界。そうして俺から離れ、カルメンの元へ帰ってしまった。  なにがあっても千昭だけはそばから離れない、そう思っていた俺はなんと傲慢なのだろう。 「おいどうした、なに暗い顔してんだよ」 「……してない」 「いやしてるだろ! いつも余裕こいた顔してるやつがそういう顔してたら調子狂うだろ! んな顔すんなよ、あー、元気出せって!」  渋谷に腕を引かれ、気がついた時には腕の中にいた。バスケ部エースというのは嘘偽りではないことがはっきりわかる逞しい腕、広い胸。するりと腕を回した背中はどこまでも大きくて広い海のようだ。  きっと渋谷にとってこの抱擁は、試合で負けて落ち込む後輩を慰める程度のものなのだろう。だからこそ、安定したリズムで鼓動を刻んでいる。ばくばくと早くなったりしないその鼓動にひどく安心して、顔を埋めた。

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