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 五喜に王からの褒美、ブルガリのキーリングにマンションの鍵をつけ――五喜が一番喜ぶであろう一志の隣室をプレゼントし、一志のマンションまで無事に送り届けた。あとはもう帰宅するだけだと、真っ白いスーツを脱ぎ捨ててネクタイを一気に緩める。それでも、呼吸はうまくできそうにない。それもそうだろう、もともと正装のせいで呼吸がしづらかったわけではないのだから。  それでも、眠気はやってくる。うとうとと瞼が何度も閉じては開けるを繰り返す。どうせ今寝たところで、瞼の裏にはカルメンが映る。眠るべきではないと理解しているのに、大事な幼なじみである五喜と七緒の前で『完璧な王』を演じて精神的に疲労しているようだ。一度目を閉じたが最後、意識は夢の中へと消えた。 「っどうして、弾が入ってないの……?」  カルメンがいくら引き金を引こうとも、銃声が鳴ることはなかった。当たり前だ、警備員の銃には最初から弾など入っていないのだから。  カルメンが持ってきた銃をどうにか奪いとってしまえば、カルメンは警備員の銃を奪いにかかる。それを見越し、警備員の銃からは弾を抜いておいた。一種の賭けだったが、どうやら運は俺に味方をしてくれた。  その場に崩れ落ちたカルメンをプールから上がって来た警備員が取り囲む。それでも千昭の震えは止まらない。この男を俺が守らなければと、千昭を抱きしめた。身長差的に、抱きついたのほうが正しいかもしれないが、気持ちとしては抱きしめてやっている。 「千昭、大丈夫だ。もう震える必要はない。俺様がお前を震えさせる者から守ってやる」 「……ち、ちがう、ミチル、怖いから震えているんじゃない、俺のせいで、ミチルを死なせてしまうところだったかもしれない、それが怖くてたまらないんだ」  ルビーの瞳からぼろぼろと涙をこぼし、千昭は俺を抱き潰してくる。痛い、やめろとは言えず、大きいけれど震えている背中をただ撫でた。 「馬鹿なのかお前は。愛する民のために立ち上がらずしてなにが王だ。お前のために死ぬのならそれも本望だし、俺様は確かに生きているぞ。それとも千昭には俺様が幽霊に見えるか?」  ちゃんと足がある。心臓だって動いているだろう。  俺と視線を合わせるために屈んでいる千昭の頬を撫でると、千昭はこくこくと頷いていた。泣いているのに、確かに笑っている。忙しい男だ。 「……ミチルは何度だって俺を救ってくれる。ありがとう、俺だけの王様、いつか、俺がミチルを守れるような男になるから待っていてくれるかい」 「俺様は気長だからないくらでも待ってる」  千昭に手をとられると、まるで誓いのように手の甲に口づけを落とされた。この日――千昭の命を救った日から、千昭は俺にひどく執着するようになったように思える。俺にとっては、たいそれたことではない。当たり前のことをしたまでだ。  警備員に腕を掴まれたカルメンは、もう暴れることはなかった。ダークブラウンの瞳はすっかり光を失っているように見えた。それでも、俺と視線が絡むとカルメンは瞳に憎悪を滲ませて俺を睨んできた。 「チアキに選ばれた幸福な人――私はあなたを必ず地獄へ連れていく。あなたが生きているかぎり、私はあなたを地の果てまでも追いかける。チアキを私に返してくれるのなら、許してあげてもいいわ」  それ以上喋るなと警備員に強く腕を掴まれたカルメンは、勝者のように口角を上げている。ぞくりと背筋が冷えるが、震えてなどいられない。なにか口にしなければと拳を握ると、千昭に強く抱きしめられる。 「絶対に、そんなことはさせない。ミチルのことは殺させやしない、俺が命にかえても守る。俺の心はいつだってミチルのものだ、きみのものにはなれないよ。だからカルメン、俺みたいなクズ男のことはもう忘れて違う道を歩んでくれ、その道は破滅しかないよ」  もう千昭は震えていなかった。俺を抱きしめ、カルメンを睨む千昭は俺を守る騎士のようだ。 「破滅、なんて魅力的な道なのかしら。私と一緒に破滅の道を歩みましょう。Hasta pronto.」  最後にカルメンが放ったスペイン語はすぐ会う予定の人への別れの挨拶。こちらとしては、もう会いたくはないのだがと眉を寄せ、警備員とともに去っていくカルメンの後ろ姿を見つめた。 「……っここ、は」  確かに車の中にいたはずなのに、千昭に姫抱きされ、ベッドに乗せられていた。「起こしちゃった? ごめんね」そう笑った千昭は以前とどこも変わらないはずなのに、距離を、壁を感じる。 「……いや、すまない、運ばせてしまって。重かっただろう。もう帰っていいぞ」  額にはりついた前髪を掻き上げながら言うと、千昭はふるふると首を横に振った。なにに対する否定なのかわからず千昭を見上げていると、あの日、カルメンから俺を守ろうとしてくれたように強く抱きしめられる。 「千昭、どうしたんだ」 「……俺の心は、いつだってミチルだけのものだよ、俺がどこへいようと、なにをしていようと、ミチルだけのもの。ミチルを、ミチルだけを愛している。ミチルを守るためなら、俺はなんにだってなれる――どうか忘れないで」  あの日のように、千昭は手の甲に口づけを落とす。長い長い口づけだ。ちゅうっと強く吸いつかれ、思わず身体を震わせてしまうほどに。ようやく離れたと思えば、手の甲にくっきりと赤い花が咲いていた。  明日も学校はある。手の甲なんてどうあがいても隠せないし、五喜や七緒にからかわれるかもしれない。ぶわっと顔中が赤くなり、思わず千昭を睨む。 「ど、うしてくれるんだ、こんな跡つけて!」 「離れていても俺を忘れないように、それから悪夢を見ないように、おまじないだよ」  すべてを見透かしているのか、千昭は汗で濡れている俺の前髪を撫でる。母が息を引き取る夢、カルメンに銃口を向けられる夢、それらすべてから千昭が守ってくれる気がして、思わず泣きそうになる。王が泣いてはいけないと必死に堪え、前を向く。 「……それならば、俺様からも千昭にまじないをかけてやる。俺様が、あらゆる恐怖からお前を守ってやろう」  どうやってするのが正しいのか、さっぱりわからない。けれども、俺は王としてではなく、一人の人間として千昭にそうしてあげたいと思った。やわらかな千昭の唇に自分の唇をそうっと押しつける。千昭にしてみたら、犬や猫に舐められたようなものかもしれない。それでも俺にとっては、一生分の勇気を振り絞った口づけだ。  ゆっくり唇を離すと、千昭は戸惑いや照れ、喜び、あらゆる感情を顔に浮かばせ、みるみるうちに耳まで赤くした。 「本当に、あらゆる恐怖が消え去った気分だよ……ミチル、良い夢を」  俺の額にキスを送った千昭はベッドからゆっくり立ち上がり、こちらに振り返ることなく部屋から出て行った。  一緒に寝ていなくても、千昭が悪夢から守ってくれる。心からそう思えた。さっきまで感じていたはずの心の距離は、壁は、すっかり消え去っていた。

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