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王に唄えば

「ミチルは決勝ではなにを弾くの」  コンクールは順調に勝ち進み、残すは決勝。決勝までに曲の精度を上げなければと、白金の別荘でピアノを弾いている俺の姿を千昭は飽きもせずに毎日眺めに来た。「そんなに俺様が美しいか」と冗談を言えば、千昭は「世界で一番美しいよ」と本気で返してくるから、おかしな男だ。 「リストの『ピアノ協奏曲第一番』だ」 「ミチルってリスト好きなの?」 「ああ、最も尊敬するピアニストだ」 「それは妬けるね」 「あのリストに妬くのか」  ピアノの魔術師と名高いリストに妬くとはたいした男だ。思わず笑い、ピアノを弾く手を止めて千昭を見る。すると、千昭は妬いているとは思えないほど晴れやかな笑みを浮かべていた。 「今はリストのおかげでミチルの可愛い笑顔が見られたから感謝してるよ」  現金な男だなとますます笑うと、ソファーに腰を下ろしていた千昭はゆっくり立ち上がり、俺のとなりに腰を下ろしてきた。ピアノ椅子は大人二人は座れる大きさがあるから狭くはないが、どうして急にとなりに座ると首を傾げ千昭を見上げる。 「ミチルが弾いているとなりで俺は王様のために歌おうかと思って」 「俺様に捧げる歌か、悪くない」  音八ともよくそういう遊びをしている。俺が弾いているとなりで、音八がでたらめな歌詞をつけて歌う。目につくものを歌詞にしたり、ただ同じ単語を繰り返したり、本当に適当なものだけど、音八が気持ちよさそうにしているから、俺もいつも以上に楽しく弾ける――音八は日本で元気にしているだろうか。優勝トロフィーを土産にして、会いに行こう。  日本にいる兄へ思いを馳せ、ふたたび鍵盤に指をすべらせる。千昭はどんな歌声だろうか。チラリと千昭へと合図を送ると、千昭は口角を上げて頷いた。  思いついたまま自由に弾く俺の隣で、千昭は低くて甘い声で歌う。なんだ、良い声をしているじゃないか、音八に会わせてやりたい。鍵盤の上の指は千昭の歌声に合わせて軽やかに踊った。 「お久しぶり、幸福な人。私のこと覚えているかしら? 私はあなたのこと一分一秒忘れたことはないわ」  このスペイン語なまりの英語を、忘れるわけがない。  ぞくりと背筋に走った恐怖に気づかないふりをして、ゆっくりと視線を上げる。  七月がすぐそこまで迫った六月某日、土砂降り。音八から「準備は整った。今夜ライブ開催する、『シーサイドナイト』に集合」とメッセージをもらい、駆けつけた『シーサイドナイト』前には真っ赤な傘を差したカルメンが立っていた。 「久しぶりではないだろう、お前はよく俺様の夢に出てくるからな」 「あら私のこと口説いているの?」 「そうだったらどうする」  なんて楽しくない軽口だろう。なにかひとつ選択肢を間違えれば、カルメンの刃が俺の心臓を貫く。だけど、恐怖に震えてなどいられない。俺は、この女と刺し違えるためにここに来たのではない。 「私の心にはたった一人しか入れないってあなたもよく知ってるでしょう」  カルメンの赤い唇がゆるく弧を描いた。  いつまでカルメンは千昭を捕らえるつもりなのだろうか。死が二人を分かつまで? それは永遠の愛を誓い合った者たちだけに許される行為だというのに。 「無理やり縛りつけるのは愛とは言わないぞ」 「チアキの愛に気づいておきながら素知らぬふりをしているあなたに言われたくないわ」 「素知らぬふりなど――しているな。そのたびに俺は千昭を傷つけてしまっているのだろう」  雨のように千昭は愛の言葉を降らし、俺は受け流すために傘を差してきた。それでも千昭はめげることなくて、俺たちの中で一種のコミュニケーションみたいになっていた。五喜や七緒も「いつものやつだ」と俺たちのやりとりを笑うほどに。だけど、それをコミュニケーションだと思っていたのは俺だけかもしれない。五喜に言われるまで気づかなかった愚かな自分を殴りたい。  カツカツカツと赤いヒールを鳴らし、カルメンは俺へと間合いを詰める。ひりついた空気が刃ならば、俺の体はズタズタに切り裂かれていたことだろう。 「っわかっているのなら、どうして私にチアキを返してくれないの?!」    ダークブラウンの瞳は怒りに燃え、真っ赤な爪がぎりぎりと俺の胸ぐらに食い込んだ。  俺の痛みは俺にしかわからないように、彼女の痛みは彼女にしかわからない。きっと、俺たちは一生意見が交わらないだろう。だけど、お互いを理解して、尊重することはできるはずだ。  カルメンの手にそっと触れる。まさか俺が触れると思っていなかったのか、カルメンは大きく目を見開いて動揺を示した。 「千昭は窮屈を嫌い、自由を愛する男だ。千昭が誰のとなりにいるか、どこへ行くか、それを決めるのは俺様でもお前でもない。千昭自身だ」  どうか俺の気持ちが伝わるように、祈りを込めてカルメンの手を握ろうとした。「っやめてよ、あなたに触られたくないわ!」パシンと払いのけられ、乱暴に傘を閉じた彼女は『シーサイドナイト』の中へと入って行く。  長い夜になる。その間にひとかけらでも思いが伝わればいい。彼女にならって傘を閉じた。雨はまだ止みそうにない。

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