こわい、いやだ、やめろ、たすけて。 　屈強な男たちに囲まれ、手を掴まれても、その言葉を叫ぶことができなかった。いや、叫んではいけないとぐっと堪えた。姉に言われたのだ。「王たるもの、いかなる時も動じてはいけません。冷静にあるべきです」冷静になれ、白金三千留。叫べないのならば、体で抵抗あるのみだ。たかが五歳児となめてもらっては困る、俺は白金三千留。王になる男だ。 「おいおいそんなに暴れるなよ、綺麗な体に傷がついちまうぜ」 「白金の子ってだけで高くつくのに、この容貌じゃ頭のおかしな男たちが放っておかねぇのもわかるぜ」 「連れて行ったら俺たちも好きにしていいんだろ？　はー、たまんねぇな」 　男たちがなにを言っているのかはさっぱりわからなかった。だけど、下劣極まりない言葉だということだけはわかる。車に連れ込まれる前、最後の力を振り絞って男の腕に噛みつこうとした。 「っっいっでぇ！　なにしやがる小僧！」 　ビュン。バスケットボールが風を切り、男の顔面に直撃した。その瞬間、男は俺の手を離し、ボールを投げた少年へと視線を向ける。俺の手を掴んでいた男だけでなく、俺も視線を向けていた。 「ぼさっとすんな！　俺といっしょに来い！」 　少年はふわふわとした黒髪を揺らし、垂れ目がちな大きな黒い瞳に俺だけを映すと、俺の手をぐいっと掴む。そのまま少年に手を引かれるまま、ついていく。まるで風になったように、姉に言われて伸ばしていた金色の髪がさらりとなびいた。そうして、少年は男たちをあっという間にまいてくれた――もしかして、この男は。 　偶然か、運命か、少年が着ていた白いシャツには青い鳥が描かれていた。ああ、やっぱり、この男こそ、俺の青い鳥なんだ。喜びの涙が滲みかけ、それを誤魔化すように少年の手を強く握り返した。 「三千留、ここ蚊に刺されてるよ」 　五喜がにっこりと笑って首筋をトントンと叩くから、この俺様が蚊に刺されるわけがないだろうと眉を寄せながらもトイレの鏡に映る自分を眺める。ああ、ルビーの瞳をした蚊に刺されたのだと思い返すだけで顔に熱が一気に集まり、勢いよく首筋を手で覆った。 　あの日から――俺とカルメンのために開かれたスペシャルライブの日から、千昭は以前のように、いや、以前にも増してべったりひっついてくるようになった。朝は運転手をし、夕方はバンドの練習にちゃんと参加して、夜は俺の部屋へと帰ってくる。以前は俺が眠っている隙にいつの間にかベッドへと潜り込んで来ていたけれど、最近は俺が起きている時に帰宅をし、『ゲームの時間』と称して俺の体を撫で回す。とんだセクハラ親父だ。だけど、俺がセクハラだと思っていないのだから、セクハラにはならないのだろう。 　俺に触れながら、千昭は何度も「俺との出会いを思い出した？」と聞いてくる。頭がバターのごとく溶けている時に思い出せるわけもなく、ふるふる首を振ると千昭は「残念だなぁ」とちっとも残念じゃなさそうに笑い、キスをしてくる。そのたびに、やっぱり、俺はこの唇を知っていると回らない頭で思うのだ。それが、きっと俺たちの出会いにも繋がっている気がした。 「ルビーの瞳の蚊に刺されたの？」 「見えるところに刺すなと言わないとな」 「見えないところならいいんだ、三千留やらしいね」 「お前に言われたくないぞ」 　五喜に一志の隣室をプレゼントしてから早二ヶ月。毎日のように一志の部屋に入り浸り、朝は一緒に朝食を食べてから電車通学。夜ももちろん夕飯を共にし、ソファーで膝枕をしてもらい、たっぷり一志を堪能してから一緒に眠る。もうつき合ってしまえと言いたくなるし、実際に言ったが、「一志さんが五年待てって言うんだよね。まぁ、一志さんの口から待てないって言わせるけど」とにっこり笑う五喜は天使の顔をした悪魔だ。 「僕のやらしさは一志さん限定だからね」 　眼鏡の奥の黒い瞳がキラキラと輝いている。言っていることはどこまでもはしたないのに、こうも無邪気に言い切られてしまえば、きっと一志もなにも言えなくなるのだろう。 　一志のおかげで五喜は本当に変わった。広尾家の呪縛から解放され、精神的に自立した。食生活がしっかりしたおかげで、肉体的にも美しく成長している。俺の蒔いた種以上に、五喜は大輪の花を咲かせてくれている。 「三千留、保健室で絆創膏貰って来なよ。次は体育だしついでだから眠ってきたら？　ルビーの瞳の蚊に全身刺されていると思うし。着替える時にそれを見られたくないでしょ。それに少し寝不足じゃない？　顔色がよくない気がする、適度にサボりなよ」 　五喜はにっこり微笑むと「僕は優等生だから教室に戻るね」と本物の優等生なら言わないであろう台詞を言い、トイレから出て行った。 　全部図星すぎて返す言葉がでない。ルビーの瞳の蚊に全身刺されているし、確かに最近寝不足だ。すべてが千昭のせいというわけではない。七月中に事務所を設立しようと動き回っていたからだ。共同経営者の兄がなにかと力になってくれたおかげで、あとは音八が『サイコーの曲』を仕上げてくれるのを待つばかり。 「……さすが幼なじみだな」 　鏡に映る俺は顔色が悪い、というほどではない。幼なじみの五喜だからわかることだろうと笑い、トイレから出て保健室へと向かおうとした瞬間、ぐらりと視界が歪む。疲れを実感した途端、体が言うことを聞かなくなるとは情けない。 　王がこれしきのことで倒れてはいけない、壁に手を突きながらでも保健室まで歩いてやると決意をすると後ろから肩を掴まれ、後ずさりする。あ、転けるなと思った瞬間、俺の肩を掴んだ男――渋谷に抱きとめられていた。 「すっげー具合悪そうじゃん、どうした」 　渋谷は後ろから俺の顔を覗き込むと「顔白！　いつも白いけどいつも以上だわ、やべーな、歩けんのかよ」と眉を上げたり下げたり忙しい。たったそれだけのことで元気になるから、青い鳥パワーはすごい。 「お前の顔を見たら元気になった、ありがとう」 　口角をゆるく上げて微笑むと渋谷の顔がじわりと赤く染まっていく。まさか俺の疲れが渋谷に飛んでいってしまったのか。それほどやわな男ではないと思うが、青い鳥パワーでなにが起きるかわからない。今度は俺が渋谷の顔を覗き込もうとすると「じろじろ見んな！」と怒られ、乱暴に姫抱きされた。ここ廊下だぞ、意味がわからないんだが！ 「お、おい、ここ、廊下なんだが」 　周りの目がものすごく痛い。幼稚舎から通っている俺は百花で有名人だし、インハイ常連のバスケ部エースの渋谷はどこにいても目立つ。女からは「歩六先輩が三千留様をお姫様抱っこしてる」「絵になる」「素敵」とひそひそ言われるし、男からは「白金をお姫様抱っこするとか羨ましいな」「白金ならイけるよな」とあからさまな下心を向けられる。最悪だ。 「は？　よれよれして保健室まで行けそうにねーやつに言われたくねえよ！　運んでやるって言ってんだよ！」 「頼んでないんだが！」 「王様なら民の善意を素直に受け取れよ！」 　はっきりそう言われると、返す言葉がない。ぐっと言葉を飲み込んで「……ありがとう」と小さく呟くと、渋谷は「……おう」と頷いた。