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 男の掌より一回りほど大きい水槽には、一匹の真紅の熱帯魚。気泡と交わる長く、美しい尾鰭。少し重たげに尾を引き、やや尻下がりにも見えるが、その姿はまるで十二単を纏う女官にも思えてしまう。何ものも邪魔はさせないといった、気高さを示しているように水中を舞っていた。  いつものように餌をやるため、松原は水面を覗き込む。それまでは気品高く、優雅な動きをしていたベタが、スゥーッと浮上した。  思わず頬が緩み、柄にもなく「餌だ」などと口にする。パラパラと水面に人工餌を落としていくと、瞬時に口を開きこぽっという音と気泡が生じた。漂っては消え、生まれては消え。その儚さに、胸の奥がきしりと痛んだ。  気を取り直して、優雅に水中を漂う真紅のベタに視線を向ける。  いつもなら何時でも眺めていられるはずなのに、思い浮かぶはさっきまで傍らにいたハルヤのことだった。  もし本当に絡まれていたら――  そう思うと落ち着かなかった。様子だけ見て、駅員や交番に揉めていることだけを伝えて帰る。そうすれば自分の気がかりもなくなるはずだと――それなのに、彼が男に腕を引かれている姿を見た瞬間、沸き起こる憤りを抑えることができなかった。

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