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 春夜(しゅんや)は松原の背が見えなくなるまで見送ると、ずっと手にしていた名刺に視線を落とす。寒さで手がかじかみ、微かに名刺を持つ手が震えた。  彼が言った「うちに来れば良い」という言葉。他の客にも似たようなことを言われたこともあったが、それは一時の感情に翻弄された戯言でしかなかった。本気で迎えようとしてくれた人なんていない。頭では分かっているのに、心は置いて行かれた子供のように、寂しさに埋め尽くされていく。  寒さに全身が凍てつきはじめた頃、ようやく春夜は名刺を袂にしまうと、店に入ろうと踵を返す。 「春夜」  無感情な声で本名を呼ばれ、春夜はゆっくりと振り返る。仕事帰りなのか、スーツにブランドのコートを着た裕介が不機嫌そうな表情で立っていた。 「ここではその名前で呼ばないでください」 「ああ、そうだったな。そんなことより、寒いから早く案内しろよ」  裕介はそう言って、春夜の横をすり抜け框を上がる。奥で帳簿を付けていたキミヨに近づくと、財布を取り出した。 「お客さん。悪いんだけど、この子はまだ支度が出来てないんですよ。他の子ならすぐに案内できますけどねぇ」  キミヨはそう言って、札を手渡そうとする裕介を上目遣いで見た。事を荒立てないようにするためか、キミヨはいつもよりも口調が丁寧だ。  その様子に春夜は呆気に取られる。いつもは次の客が来たら部屋で待たせ、さっさと準備しろとせき立てられていた。他の子をあてがおうとするのは、顔を腫らして無様な姿になった時だけだ。

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