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第1話

「鳩尾と背中が痛い。めっちゃ痛い」 「……しつこい」 「だってなかなかバイオレンスだったよ?」  ログハウスのダイニングで軽口を叩き合う紅野環と神納理は生まれた病院も、幼・小・中・高と学校も一緒だった。違うクラスだったこともあったはずだが、いつのことだったか覚えていないくらいには、何をするのでも傍で育った。  家族ぐるみの付き合いで生まれた頃から一緒の幼なじみなどというものは、田舎ではよくある話だ。その上それぞれの家族が多く、理は環の姉と兄によく世話を焼かれたし、環は理の妹ともよく遊んでやっていた。 「だから詫びにミルクティー入れてやってんだろ。オラ、できたぞ。機嫌直せ」 「わーい」 「おまえホント安上がりな」  小言など聞こえていないのか聞く気がないのか、環は呆れ顔の理が差出したマグカップを嬉しそうに両手で包んだ。ふーふーと冷ましながらミルクティーをすする環の隣に腰かけた理は、対照的に眉間に皺を寄せて不機嫌そうだ。  どてらの下のジャージの袖を手の平まで伸ばした理は、頑なに環を見ようとはしない。そのくせ環の挙動を視覚以外の全てで気にしていた。  言いたいことがある。だが言い出し難い。かつ環が何か言い出すのではないかと警戒している。  隣で神経を尖らされれば、付き合いの長い環には理の考えていることはだいたい解る。しかし環は黙ったままだ。こういう時、先に話かけてしまうと理は自分の気持ちをしまったまま外には出さない。 「……蹴り落としてごめん」  昨夜、二人は酔って寝所を共にしたが、早朝の起き抜けに子細を思い出して納得できるわけもなく、理は混乱したまま環の鳩尾に一発喰らわせた上でベッドから蹴落とした。  寝ぼけていたとはいえ酷い仕打ちをしたと、理は朝から隣村の畜産を営む同級生の所まで牛乳をもらうために軽トラを走らせた。帰ってみれば環は二度寝を決め込んでいて、寒い中遣い走らされた理は衝動のまま再び環を床に沈めたのだった。 「いいよ。なあ、このマグって買ったの高校ん時だっけ。もう十年前かー」  お互いに非があることが分かっている。それでも理が気にしてしまう性分だと知っているから、環は謝り易いように静かに待っていた。環が一言で許してなんでもない話題を振れば、理の強張った体から力が抜けていく。  ほっと息をついて理もマグカップに口をつけた。子どもの頃から愛飲している、理の祖母直伝のロイヤルミルクティーだ。茶葉を温めた牛乳で煮出してハチミツを一さじ加えただけのものだが、理にとっては大事な家庭の味だ。  環に至っては、紅茶は理がいれたロイヤルミルクティーしか口にしない。今でこそストレートの紅茶もハーブティーも嗜む理も、子どもの頃は祖母が入れたそれしか飲めなかった。  今、理が生活しているログハウスは、彼の祖母、紅葉が茶葉から紅茶を作って楽しむために作ったものだ。  二階建ての、小屋と呼ぶには立派なそれには、寝室、客間が二部屋に、ダイニングキッチンと紅茶を作るための設備が整った作業場がある。リビング予定だった広間は、作り過ぎて消費しきれなくなった紅茶を捌くために、いつからか店として使われるようになった。  二十歳の時、理は店を継ぐ形でログハウスを譲り受けた。紅茶の作り方はログハウスが出来た頃から仕込まれており、開店から十八年になる紅茶屋Farmhouse Teaは細々と地元民に愛されている。  そんな地元民と、年に数人来るたまたま迷い込んだモノ好きな旅行者しか知らない店の茶葉の原料を作っているのが環の茶畑だ。  理の祖母と環の祖父は幼なじみで、原料を望むだけ提供する代わりに紅野家の人間がログハウスで飲食する際は神納家が全て負担するという、偏った約束が成されている。近辺の農家の顔役のような責を担う神納家の女傑に強く出られる者などそういないが、紅野の家長は神納に弱みを握られているという噂が一時期村を席巻した。  祖父母の約束は孫の代でも変わらず有効で、理は環から茶葉を貰い受けて紅茶を作り、環が望む度にロイヤルミルクティーを入れた。基本的には紅茶の茶葉を売っており喫茶スペースは半分試飲のために使っているため、そこでミルクティーを飲むのは理と環だけだ。 「な……に、してんの?」  ストレートティーも飲むようになって、ロイヤルミルクティーを飲むのは環といる時くらいになってどれくらいになるだろうとぼんやり考えていた理が、いつの間にか至近距離にいた環に問うた。 「ん?したいなーって。キス」  マグカップ一つ分もない距離と質問の答えにぎょっとする理に構うことなく、環は更に顔を近付けようとする。慌てた理が距離をとれば、環は不思議そうに首を傾げた。 「馬鹿なの?あんなん酔った勢いのお遊びだろ。つか忘れて今まで通りって流れだろコレ」 「え、そうなの?昨日、今までで一番かわいかったのに」  見る間に血が上った理の顔が朱に染まる。怒りか羞恥か、恐らく両方で理は声が出せなかった。昨夜の光景がフラッシュバックする。  世の中はクリスマス・イヴの夜に浮かれていた。環は茶畑の管理のために家に一人も残さないわけにはいかないと、家族旅行から取り残された。理はいつも通りに仕事をしていたが、鍋が食いたいと押し掛けてきた環にせがまれて支度をした。  留守番の駄賃にくすねたという環の祖父秘蔵の酒は旨く、久々に軽くふらつくまで飲んだ。二人しかいないログハウスはしんと冷えて、暖を求めて小学生の頃よくしたように共に眠った。  深夜、下半身の違和感に目を覚ました理が見たのは、他人の手に慰められている自分の息子だ。ぎょっとして止めさせようと伸ばした手は片手で封じられた。酔いの醒めきらない起き抜けの思考と身体はろくな抵抗もできずに、与えられる快楽が何故と問う思考回路を寸断した。  助けを求めて見上げた先にあった環の顔を思い出した所で、マグカップを持った左手が掴まれた。 「ナニを思い出してそんな真っ赤になってんの?」 「し、知るか!寄るな変態‼︎」 「まーまー」 「おっじゃまー!みんなのアイドルうるしー来たよー!!メリク……リ?」  環の指が理の手の平をなぞり、ビクリと肩を揺らして全身を強張らせた理を嘲笑うかのような軽い声が響いた。互いにマグカップを握る手首を掴んで椅子の上でギリギリの攻防をする格好のまま固まった理と環の視線の先で、大きなサングラスをかけた男も八重歯を覗かせて笑った顔のまま固まっている。 「……」 「……」 「……あれ、マジにおジャマだった?つか何してんの」 「あ、うるしーこっち来んの今日だっけ」 「いい加減離れろや!」  がつん、と環の顎に横から頭突きがキマった。拘束が弱まった隙に、理が環のマグカップを奪ってついでのように椅子から蹴落とす。先ほどの数秒の沈黙はなんだったのか、驚く程自然に止まった空気が動き出した。  腰を擦る環の傍にひょこひょこと近付き、しゃがみ込んだサングラスの男、雲類鷲基はさらりと黒髪を揺らして首を傾げる。サングラスを頭の上に押し上げてのぞいた瞳は好奇心に輝いていた。 「なあ、新しい遊び?D Vままごと?もうちょっと平和的なアソビだったらハジメチャンもまぜて?」 「おれはいたってマジメなんだけどなー」 「なあ、仲間はずれいくないって。何してたんだよ教えろよー」 「なんもしてねーから無駄な詮索してないで荷物置いて来い。つか俺、基が来んの聞いてねーんだけど」  椅子に座り直す環を爪先で突きながら基がマフラーとコートを脱ぐと、顔面に布の塊が押し付けられた。環と基が軽口を叩き合う間にどてらをもう一着持って来た理が、不機嫌そうにぐいぐいと基に押し付けて呼吸を奪う。 「イタイいたい。愛がいたいよおにーさん。どてらありがとう、つかラインしたよね?」 「したな。先週?」 「環に連絡したのは分かった。その後、俺にしたか?」 「……してないね!来たよ!泊めてください!」 「来たよじゃねーよ!おまえ大食らいなんだから三日前には言っとけっつってんだろが!」  環と理は幼なじみで、実家も比較的近い。田畑や山があるため直線距離は近いとは言い難く車の方が楽だが、徒歩で行けない距離ではない、という意味で一番のご近所さんだった。  基はそんな二人が通う高校に他県から編入してきた。一見近寄り難い雰囲気だった基と意気投合して以来、三人は十年近い付き合いになる。高校を卒業し、地元に戻った基は不定期に遊びにきては数日理の家に厄介になり、遊び倒して帰って行く。  身長はあるが引き締まった身体のどこに入るのか、基は誰よりもよく食べた。いきなり来た基が望むまま食事を出して理の家にあった食料が底をついたのは一度や二度ではない。 「くっそ、食料買い足さないと年明けまで保たねえぞ……」  荷物を客間に置いて来るよう基を追い立てた理は眉間に皺を寄せて唸った。ブツブツと食料調達の算段を立てながら、台所で愛用の鉄瓶に火をかけたところに環が口を挟む。 「なー、うるしーってここ泊まるんだよな」 「あ?そうだな。泊めろっつってたし。いつまで居んだか知らねえけど」 「先週は年明けたら帰るみたいなこと言ってた。おれも泊まっていい?」 「は?」  かぽ、と茶筒を開けた状態で理の視線が環に固定される。環はいたって真面目なようで、理を一層疑問の渦に引きずり込んだ。  何が悲しくてクリスマスから年越しまで独身男三人で過ごさなければならないのか。 「泊めてくんないならキスして」 「………………は?」  たっぷり瞬き三回分の後に理が発声できたのは、解らないという意思表示の一文字だけだった。  朝起きてから幼なじみの頭がおかしくなっている。理の環に対する認識が、不可解から心配にすり替わりつつあった。子どもの頃から我が道を行くタイプではあったが、ここまで突拍子もないことを言われた記憶はない。  理が昨日の鍋に入れた具材を思い出しているうちに、環は理のすぐ傍まで近寄り、顔を近付けた。理は慌てて顔の前に両手を広げてバリケードを作る。 「ちょ、ちょい待て。おまえホントどうした。昨日の鍋に変なもんは入れてねーぞ」 「なんだろうね。なんか、理とうるしーが一週間二人っきりってやだなーって」 「妙な言い回しすんな。そして腰に手をかけるな気色悪い」 「いいじゃん、キスくらい。棒合わせした仲じゃん」 「蒸し返すなっつってんだろが!近い!!」  あけすけな物言いに、かっと理の顔に血が上った。顔面に両手を押し付けて引き離そうとするが、環の腕は理の腰を放さない。 「ぎゃっ!?」  べろっと手の平を舐められた理が悲鳴を上げた。反射で解放された環はしつこく唇を寄せようとするが、理は必死の形相で環の顎を押さえつけ、腰の拘束を解こうともがく。  仕事柄、全身を使う環は一見理よりもしっかりした体つきだ。厚みが違う。けれど、理の本業は腕力がなければ仕事にならないため、腕の太さだけで言えば理に分があった。妙な均衡がとれてしまい、体勢が変わらないまま静かな攻防が続く。 「なあ、いつの間にそんなおもろいことになったん?」  再び二人がハッと顔を上げると、基がどてらの袖の中で腕を組んで壁にもたれていた。目は不思議そうに瞬いているが、口元はニヤついていて、からかって遊ぶ腹積りであることがありありと窺える。  突然声をかけられて、ぽかんと呆けてしまった状態から先に意識を取り戻したのは環だった。理の抵抗が弱まった隙に、基の視線も気にせず抱き寄せる。 「助けろ基」 「なかなか絆されてくんないんだよね」 「理はツンデレだかんなー」 「味方なんていなかった」  基は、必死に逃げようとする理と、逃がすまいと躍起になっている割に楽しそうな環を眺めた。  環に絡まれる理など見慣れているはずなのに、どうも違和感がある。  どんな時でも呆れを含んだ許容があった理が、本気で困っている様に見えた。環に至っては完全に甘えたモードになっている。理や基に対しては緩和されているが、どこか冷めているような、一歩引いたようなところがあった環が、見る影もない。  こんなにデレデレと締まりのない顔をしているのは、環の甥が生まれた時以来か、下手をすればその時以上の緩みっぷりである。 「なになに、何があったの?オサムクンはノラ猫タマちゃんを飼い猫にしちゃうような何をしたの?」 「俺のせいか⁉︎」 「んーどっちかっていうとおれのネコになんないかなーって」 「はあ⁉」  理の絶叫が響いた。目を見開いて、必死に言葉の意味を理解しようと考える。しかし、恐らく正しい答えをイヤあり得ねえから、と即座に否定してしまっていつまでも納得出来なかった。  一方、基は昔から回転の早い思考で先ほどの違和感の答えと共に核心を突く。 「ん?……なに、下いナニかがあっちゃったの?」 「聞いてようるしー、理がかわいくて」 「わーわーわー‼︎」 「……理、だいじ?」 「ダメかもしれない。主に環の頭が」  諦めたのかヤケクソなのか、理は抵抗をやめて環の腕の中で大人しくなり、鎖骨の辺りに額を落とした。驚いた顔も数瞬で、環も優しく理を抱き締める。 「えー?男同士って大変って聞くけど実際どうなの?きもちいの?」 「昨日は最後まではしてないけど、どうせやるならどろっどろになるまできもちくなるように開発、……しないと、う……あの、オサム、サン……くるし」 「調子乗んな、誰がスるか」  諦めたかに見えた理は、頭頂部で環の首を圧迫していた。さほど身長差もないので、肩口を両手でしかと掴んでじわじわと、しかし確実に息の根を止める勢いである。  命の危機を感じて、環はようやく理を解放した。ジト目で睨まれて、両手を挙げて二歩下がる。理はフンと鼻をならして湯の沸いた鉄瓶に向き合い紅茶を入れ始めた。  しばらく口きいてもらえないかもな、と基に頭を撫でられながら、環は少ししょぼくれた顔で理の後頭部を眺める。  理は口では文句を言いつつ大概のことを許すが、一度本気で機嫌を損ねると鎮静化するまでが長い。自身でさえ落とし所がわからなくなる時があり、頻度が低い故に対処法も把握できていない不器用な男だった。  不機嫌の原因はだいたい環で、解決するのもまた環だ。宥めすかして、許すきっかけを二人で探して、なんとか元の位置に戻ろうとする。そうして、二十六年間傍で過ごしてきた。  けれど、今回は少し、これまでとは違うのかもしれない。  環は、今まで一番近くで生きてきた理の心にもう一歩踏み込みたい、という欲が生まれているのを自覚し始めていた。

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