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第2話
仕事があるから居座るなら食料調達は自分たちでしてこい、と環と基を追い出した理は、一人工房で頭を抱えていた。
ログハウス内の一室、本業である挽物を作るための工房だ。神納の家は古くから所有の山を管理しながら林業を営み、切り出した材木の一部を加工してきた。
理は本家筋の次男で、挽物を生業としている。林業や他の事業は親戚と数人の従業員が滞りなく務めているし、本家は兄が継ぐ予定なので、最近ようやく一通りの修行を終えた理は実家を出た。気楽に自分の作品を作って贔屓の店に卸し、注文があればそちらの制作をする。紅茶はあくまで祖母から受け継いだ趣味の延長だ。
挽物は回転する木材をノミで削って器などに加工する。刃物を使う以上、集中できない時は仕事にならない。
理はただ、工房の木の香りの中で落ち着きたかった。仕事はあるが、急ぎでもない。紅茶作りの作業場でも良かったが、職場の方が頭が冷える気がして足が向いた。
工房の隅、木の削りカスをまとめた麻袋の隣で膝を抱えてため息をつく。なぜ。どうして。そればかりが頭の中をぐるぐる回っていた。
環はストレートだ。ズボラだが顔立ちは整っていて身長もあり、彼女だって何人もいた。今はフリーのようだが、最後の恋人と別れてから一年程経ったろうか。
環は年上の女性によく可愛がられていた。容姿に惹かれて、存外子どもっぽいところが可愛いと世話を焼きたがる女が後を絶たない。環は環で、特定の人がいなければ来るもの拒まずで付き合っていた。
そして、しばらくすると振られちゃった、と理のところにミルクティーを飲みに来るのだ。
「ちゃんと好きなつもりなんだけどなー……いつも、環クンは私のことそんな好きじゃないよねって言われる」
いつだったか、さして堪えていない声で環はボヤいていた。振られて傷ついた、というよりは、何故そんなことを言われるのか心底不思議だ、という顔だった。そういうトコじゃねーの、と言った理の言葉にも、やはり環は首を傾げた。
昔から、環は一部を除いたあらゆるものに興味を示さない子どもだった。小学生の時に流行ったテレビゲームも、皆がこぞって欲しがったブランドロゴ入りのスニーカーも、東京へ行ったと自慢気に語る同級生の話にも、欲しいとも羨ましいとも本気で思っていなかった。何が楽しいのか、空を眺め、茶畑を歩き、年がら年中お茶の木を眺めていた。
中学に上がる前、理はお茶の木をスケッチをする環に差し入れを持っていったことがある。理は、環のあそこまで真剣な顔をその時初めて見た。
好きなものとその他大勢に対する心の傾け方が極端なまでに異なるから、好きなものに対する熱量を知ってしまうと、自分に対する興味や愛情が無いに等しいことが否が応でも分かってしまうのだろう。気持ちが一方通行だと分かってなお、恋人ごっこを続けられる人はそう多くない。
物心つく前から一緒に育った理は環の極端に狭い、大事なモノの世界を知っている。だからこそ、理にとって環の態度は不可解だった。
キスして、と言ったあの時、環はお茶の木をスケッチしていたあの日と同じ目をしていた。あんな目で真正面から見られる日が来るとは思ってもみなかった理は、混乱と戸惑いと、もやもやとした感情の渦に飲み込まれて呼吸をするのもやっとだ。
何がいけなかったのだろう。どこで間違えたのだろう。
酒を飲みすぎたせいか。寒かったからか。たまたま欲求不満だったのか。思いつきと好奇心に負けたのか。
いつも通りのはずだった。二人で鍋をつついて、酒を飲んで、寒い眠いと布団に入って眠るだけ。朝目が覚めれば、寝ぼけ眼でおはようと言って、朝食を摂ってそれぞれ仕事に向かう。
どうしたら間違えずに済んだのだろう。どうしたら、いつも通りのままでいられたのだろう。
昨夜のセックス紛いの行為がきっかけではあるのだろう。そこに至ってしまったことも大問題だが、ノーマルである環がどうしてそこで自分に興味を持ったのか、理は本気で理解できなかった。
他人の性器に触れるのが珍しく、何か面白いとでも勘違いして変なスイッチでも入ってしまったのか。行き過ぎた好奇心に負けた中高生のような棒合わせだ。理は訳が分からずされるがままで環が一方的に致して終わった。
イッた後に放心してしまった理の後処理も環がした、気がする。頭を撫でられて、相変わらず手がデカくて熱いと思って、頬を触られて、キスした。……キス、した?
「え?俺……環と、キスした?」
昨夜の反省をするはずが、思い出したくなかった事実を思い出した。理の顔から血の気がザッと引いていく。
キスして、と言った環の声と目を思い出す。真剣な、熱を帯びた、環の大事なものだけが見ることができるはずの、黒檀に藍を一滴落としたような、深い色。
「ただいまー!」
「っ⁉︎」
玄関先で環と基が軽口を叩いている。楽しそうな声を聞けば、理には環がどんな顔をしているか容易に想像できた。
――キスして。
脳内で繰り返されるその声に、理が抱くのは嫌悪でも憎悪でもなく、絶望だった。
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