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第7話
「どうしたんですか?」
「が、が、が……」
僕が尋ねると白坂さんは、一点を見つめ腰を引きながら声を震わせた。何かに怯えているといったその様相は、ついさっきまでの男前オーラは、すっかり影を潜めている。
テーブルを隔ててすぐそこにいるのは、ただの図体の大きい成人男性だった。
が、が、 が?
彼の目線の先を追うと1匹の蛾が入り口から彼に向かって蛇行しながら宙を舞っているのが見えた。
ああ。『蛾』の事かぁ。
どうやら店員さんが襖を開けたときに入ってきたようだ。
もしかして、白坂さんて虫が、怖いのかな?
たしかに蛾はあまり近づいて欲しくないけど、だからってあんなにちっちゃな生き物にびくびくするなんて情けない。
そう思った途端、僕の中でSAKUさん=なりたい理想の男性像というのが、音を立てて崩れ落ちていった。
僕が高校生の時から抱いていたいつなんどきもどっしりと構えていて優しくて頼りになるリーダーなイメージは、一体何処 へだよ。
幻滅しちゃうな。
ついさっきまでのご本人様だって分かって高揚していた気分が一気に下がっていく。
この人がSAKUさんだなんて、知らなきゃよかった。
「ひっ…」
ピタリ。宙を舞っていた蛾は、無情にも白坂さんの首に止まった。
彼は、自分の首元に目線を落としひきつった表情でそのまま固まってしまった。
「白坂さん、もしかして虫苦手なんですか?」
「あ、ああ…。」
僕は、冷めた目で淡々と尋ねる。彼に対しての気持ちが萎えた分、ついさっきまで目を見て話すこともできなかったのに今はすごく冷静に彼と話せてしまう自分がいた。
なんだかこのまま彼の滑稽な姿を見ているのは、自分の気持ちが益々萎えそうなので、僕は彼のためではなく自分のために虫を捕ってあげることにした。
「捕りましょうか?」
「悪い。頼む。」
「はぁ。分かりました。」
僕は、小さくため息を吐き、ゆっくりと立ち上がると彼の側に近づいた。
「……。」
「……。」
彼の視線が、縋るようにゆっくりと僕に向けられる。
このひとにこんな風に見られる時が来るなんてあの頃の僕は思いもよらなかっただろうな。
僕はその視線を無視し、蛾の動きだけに集中した。そして、腕を彼の首まで伸ばすと、指先で蛾の羽を摘まんだ。
「蛾、捕れましたよ。どうしますか?」
「ひっ…俺に見せんなよ!!」
僕は、蛾を白坂さんの目の前に掲げた。すると彼は、おもいっきり顔を背けた。
「そこまで逃げなくても大丈夫ですよ。これどうしますか?そこの窓開けて放しますか?」
席の奥の小さな障子を顎で示した。
「それは止めろよ。まだ雨降ってたらかわいそうだろ?」
「分かりました。窓開けてみて雨が止んでたら放しますね。降ってたら適当にこの部屋から出しますね。」
僕が、テーブルを回って自分の席から奥にある窓へと移動しようとすると、
「ああ、いい。こっち通れよ。こっちからのほうが近いだろ?俺が退くから。」
「すみません。」
白坂さんが、立ち上がり、僕を避けるように席から外れた。
僕は、言われるままに白坂さんの席を通り、室町さんの席に行くと片手で側にある小さな障子を開けた。
そして、障子の奥にある窓を開けようとした。しかし、鍵が固くてなかなか開けられない。
そうだった。ここの窓ってロックが固くて開けづらいんだっけ。
今になって、最初にここに来たときに室町さんが開けられずに白坂さんを呼んだのを思い出した。だけど、なんとなく今の白坂さんに助けて貰うのは気が引ける。だけど、奮闘してみるが、僕の力じゃロックは外れてくれない。
「どうした?」
彼の声が聞こえ、声のほうを向くとテーブルの反対側に彼がいた。どうやら蛾がいるから完全には僕の側に寄れないみたいだ。
「…鍵が固くて」
「ああ。ロック固いんだよな、ここ。開けようか?」
「大丈夫ですよ。自分でやります。」
「いいよ。俺が開けるから蛾はちゃんと見てて。」
蛾の事を気にしつつも白坂さんは、僕が座っていた席を回って窓に近づくと長い腕を伸ばして片手で鍵に手を掛けた。
「やっぱ結構固てぇな、これ。ま、ロックを下にはずせれば…っと。ほら、窓も開いた。雨はどうかな?」
彼が少しだけ窓を開け、外に向かって手を伸ばした。
さっき開けたときは、雨風が凄かったけど、今は風の音もなく穏やかだ。
よかった。これなら雷ももう鳴らないだろう。
「今は、止んでるみたいだな。風の音もしないだろ?」
「そうですね。じゃあ、放しますね。よかった。まだ元気そうですね、こいつ。」
僕は、蛾を彼に見えるように掲げた。
「だから、見せんなって。放したらすぐ閉めるからすぐに手を戻せよ。」
「はーい。」
僕は、適当に返事を返し、蛾を窓の向こうに放すと僕はすぐに手を引っ込めた。そして、間髪入れずに彼が窓を閉め、鍵を掛け、ロックをちゃんと掛けてから、障子を閉めた。
「ふう」
彼は、座りながらすぐに椅子の端まで移動し、部屋全体を見渡してから深呼吸をひとつした。
蛾が一匹いなくなっただけで、こんなにもほっとしているなんて、見ていてなんだか悲しい。
「ありがとう。」
「…いえ」
目があってしまい、少しだけ表情を取り戻した彼に言われたけど、僕は目を逸らし、そっけなく返した。そして、彼が座っていた席まで移動していく。
カラン。
「⁉」
なにかが右手に触れたことに気づき、手を見ると先程彼が落とした灰皿に手をつっこんでいた。
煙草は全て灰の状態で畳に散らばっているので、火事や火傷の心配はなさそうだけど、手が灰で汚れてしまったのは解せない。
"ラッキーアイテムは、虫"
ふと、今朝、なっちゃんに言われた事が過ったけど、全くもって大外れだよ。
虫のせいで、たかが蛾一匹のせいで、僕の理想も夢も憧れも音を立てて崩れ落ちていったよ。
それに人が落とした灰皿のせいで、汚れちゃうし、今日はついていない。
手相占いで出会いとか夢が叶うとか信じてしまった自分が情けない。
「はあ。」
僕は、大きくため息をひとつ吐いた。
「どうした?」
「どうしたもこうしたもないですよ。白坂さんがさっき落とした灰皿を触っちゃいましたよ。」
僕は、唇を尖らせこれ見よがしに掌と空になった灰皿を彼に向けた。
「え?灰皿?」
「もう、さっき蛾が出たときにご自分で灰皿を落としたのを覚えてないんですか?」
「悪い。蛾に気をとられ過ぎて本当に覚えてねーわ。皐月くん、火傷はしてねえか?それと手以外で汚れたところは?」
「まあ、大丈夫です。」
「それなら、よかった。俺、そこ拭くから、自分の席に戻っておいて。ほら、これ使ってないおしぼり。」
「…結構です。別に拭ければなんでもいいんで。その綺麗なのは白坂さんが使って下さい。」
「ん。そっか。」
白坂さんが、余っていたおしぼりを手にするとビニール袋を破ってから僕の前に差し出した。
僕は、それを受け取らず、すぐ近くにあった彼の使用済みのおしぼりでごしごしと手を拭いた。そして、雑に席を拭いてから丸めたそれをテーブルに無造作に置いた。
「…それと僕のこと名前で呼ぶの、与座さんたちの前では恥ずかしいんで控えて下さい。白坂さんも詮索されたくないでしょうし。」
「うん。了解。俺も急に変えるつもりはないから安心して。」
「…はい。お願いします。」
僕は、ゆっくりと立ち上がり彼もそれに続いて立つとすれ違ってもお互いに無言のまま各々のの席へと向かった。
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