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第17話

 「それじゃ、名取くん、与座さんにバックハグしちゃって。」 「……はい。与座さん行きますね。」 「おお。」 「…………。」 室町さんの声をきっかけに僕は、深呼吸をひとつした。そして、そのまま与座さんのおへその上あたりに緩く腕を回した。  僕と与座さんの背中までは、だいたい10cmくらいの間隔が開いている。室町さんが見せてくれた見本とは密着度が違うけど、今の僕には精一杯の距離である。やはり汗ばんだ背中にくっつくのは、今の僕にはハードルが高い。お腹くらいしか触れてないけど、シャツ越しに与座さんの体温の高さが伝わってくる。僕は、俯き目を瞑ったまま時間をやり過ごすことにした。  「もう、与座さん、突っ立ってるだけじゃなくて、せっかく名取くんが腕回してくれてるのになんか受けてくださいよ。これじゃどっちが未経験なのか分からないですよ。」 あきれたような室町さんの声が聞こえる。  僕としては、このまま穏便に時間を過ごせればいいんだけどなぁ。 「おまえなぁ。これはこれでいいだろ?白坂、あと時間どれくらいだ?」 「あと2分です。」 「了解。あと2分なんてすぐだな。」 「……そうですね。ホントにあっという間ですね。」 とりあえず相槌は打ってみたものの、僕にとっては“あと2分もある”という感じだ。この生暖かい感触から早く逃れたい気持ちでいっぱいだ。    「名取がそういうなら……。」  「!?」  それなのに僕の心とは裏腹に僕の両手が思わぬ温もりで包まれた。  与座さんが、いきなり僕の両手を握ってきたのだ。予想もつかない出来事に僕は、動揺し閉じていた瞼を開けた。 「……名取の手って、冷たいな。」 与座さんが、伏し張った指で僕の手を擦りながら呟く。熱くて少し湿っぽいそれは、僕の手首まで触れていく。  別に室町さんに言われたからって、触らなくてもいいのに。と、心の中で訴えてみる。 「そうですか?与座さんの手があったかいだけですよ。」 「やっぱそうか。よく体温高いって言われるさ。ま、酒も入ってるしな。がはは。」 「あは……あはは。」 僕は引きつった笑みを浮かべながら、言葉を返す。    「さっきくすぐられてたけどさ。こういうのもダメなのか?」 「え? 待ってください!! それは今は、なしですよー。あはは」 与座さんが、僕の手の甲を爪の先でさわさわと撫でていく。ぞわぞわとしたくすぐったさが、僕の背筋を伝っていき、思わず身体が、くねくねと動いてしまう。  やめてほしいと訴えたい気持ちとは逆に彼の擽りに僕の口からはほぼ笑い声だけしか漏れない。  「がはは。そんなに暴れんなよ。」 「あはは……っそう言われましても………ひぃっ……無理なものは無理です!! くすぐったくって……っ!?」  ふわり。バランスを崩した僕は、そのまま与座さんの背中に被さるように前のめりに倒れこんでいく。反射的に与座さんの身体にしがみつくように抱きついてしまい。密着が深くなる。汗ばんだシャツの感触、高めの体温、頬と頬に触れるチクチクとした髭の感触が、よりリアルに与座さんを感じさせる。  せめて口唇だけは、彼に触れないようにと顔を背けるが、追い討ちをかけるように汗と煙草とお酒が入り交じった香りが、僕の鼻腔を擽った。  こんなに誰かに自分からくっついたのなんて初めてだよ。ましてや男の人にだなんて。  未体験の接触に僕の思考は、パンクしそうだ。  「……名取、どうした?大丈夫か?」 「大丈夫じゃないです。与座さんが擽るから、今、足元が滑ってバランス崩しちゃったんです。」 「そうか。悪いな。ちゃんと支えるから、もう少し体重かけてもいいぞ。」 与座さんの手が、再び僕の両手を握った。 「っっ……。」  動悸がヤバい。ひっ……。と、漏れるそうになる声を僕は、必死に抑える。すると与座さんの体が僅かに震え、身体を強張らせた。  「……名取、少し息止めてて。」 そして、彼は、何かに耐えるような切羽詰まったような声で告げた。それは、いつものがさついた明朗な声とは違い、様子がなんだか違う。 「いきなり無茶なこと言わないでくださいよ。」 「だから、ひとの耳元でしゃべんなって。っ……俺、耳ダメなんだよ。」 「くすぐったいってことですか?」 「ま、そんなもんだな。だから、黙ってろ。」 「はい。分かりました。」 「っ……だから、息多めに喋んなって。」 与座さんの耳がほんのりと赤く染まり、首をぶるっと大きく震わせた。  「!?」 「………。」  その刹那、僕の口唇に一瞬だけチクチクとした感触が突き刺さった。どうやら与座さんの頬に口唇が当たってしまったみたいだ。  僕の頬は、羞恥心で途端に熱くなり、身体を強張らせたまま言葉すら出なかった。  どうしよう。僕ってば、与座さんの事を思いっきり抱き締めてる上に頬にキスまでしちゃったよ。今まで誰にもそんな事したことないのによりにもよって、同じ職場の与座さんで経験してしまうなんて。今日の僕の最悪な出来事のピークは、白坂さんの虫嫌いを目の当たりにした事だと思ったけど、全然比にもならないよ。  好きな人だったら、幸せな意味でのどきどきでいっぱいになるんだろうけど、この状況はどきどきはしてるけど、幸せなどきどきでないのは確かだ。  僕の中で、今日の飲み会での様々などきどきが走馬灯のように蘇る。  真っ先に浮かんだのは、白坂さんにおしぼりで背中を冷やして貰った時のどきどきだった。あれは、ホントに幸せなどきどきだった。次に浮かんだのは、『皐月くん』って、名前を呼んでくれた時だ。あれは、すごく照れたけど嬉しかったなぁ。他にもいろいろ思い浮かぶけど、どれも白坂さんとの事ばかりだ。  もちろん彼は、男性だし、恋って意味での好きな人ではないのは分かってるけどさ。  だけど、僕は、縋るように思わず白坂さんに視線を送ってしまった。  「……。」 「……。」  僕と彼の視線が重なり合った。彼は無言のままコクンと頷いてからスマホに目を落とした。    「名取さん、与座さん時間です。」  そして、ピピ。と、いう電子音が、彼が言い終わるか終わらないかのうちに鳴った。  僕は、すぐに与座さんから手を解くと、腰の力が抜け、その場に経垂れ込みそうになるのを壁に手をつき、なんとか持ちこたえた。 「名取さん、大丈夫ですか?」 すぐに白坂さんが声を掛けてくれた。 「なんとか大丈夫です。すごい緊張しすぎてて力抜けちゃいました。」 「それならいいんですけど。飲みすぎには気を付けてくださいね。」 「はぁい。」 僕は、壁伝いに自分の席に戻りながら、満面の笑みで返す。  「名取、どうした?」 「いえ。なんでもないです。」 自分の席に戻った与座さんが、僕のほうを向き声を掛けると僕は、きっぱりと答えた。  「白坂、今の少し早くなかった?」 室町さんが、白坂さんの肩に手を起き、スマホを覗き見る。 「そうですか?気のせいですよ。」 「そうかなぁ。まあ、いっか。見てて面白かったし。名取くんが、途中で、急に積極的になるからびっくりしちゃった。スイッチ入った名取くん、グッジョブだよ。与座さんが悶えてるとこも見てて面白かったよ。」 「もう、グッジョブなんかじゃないですよー。あれは、くすぐられてバランスを崩しただけです。だから、急に積極的とかじゃないですよ。ホントに男性とあんなにくっついたのって初めてで恥ずかしかったし、足腰の力抜けちゃうし、緊張してなにがなんだかです。」 僕は、おしぼりで手を拭きながら、必死に白坂さんにも伝わるように弁明する。 「でもさ。与座さん、お腹締まってるし意外にいい身体してたでしょ?」  言われて見れば確かに腹筋が硬かった気がする。僕としては、くっつくってだけで一苦労だったから、与座さんがメタボだろうがマッチョだろうが全然意識してなかったよ。 「すみません。どんな身体とか言われても頭が真っ白で覚えてないです。ただ耳の後ろから煙草と汗とお酒が入り混じった匂いがしてたのは覚えてます。」  僕は、自分のお酒を手に取るとごくごくと飲む。甘いお酒の味で、幾分か頬にキスしたときの感触が、紛れていくような気がする。  「あはは。名取くん正直すぎ。与座さん、まめに背中とか耳の後ろとか制汗シートで拭いたほうがいいですよ。名取くんがいいコだったからよかったけど、バックハグどころか今後はお隣に座ってもくれなくなっちゃいますよ。」 「……大きなお世話だ。」 不機嫌そうに言い、与座さんは、煙草を銜えそれに火をつけた。 「与座さん、すみません。臭いとか言って。」 「いいよ。気にするな。俺も今後は加齢臭もあるし、気をつけるよ。」 いつになく穏やかに言い、窓に向かって、ゆっくり煙を吐いた。  「次は俺と白坂の番だね。名取くん、時間忘れちゃダメだよ。」 「は、はい」 ヤバイ。僕ってば時間計る係なのをすっかり忘れそうになってたよ。  僕は、慌ててスマホを取り出すとストップウォッチで3分にセットした。 「ヤロー同士でするのを見させられるのも微妙な気分だな。」 与座さんが、煙を吐く。 「ヤロー同士でやるのは微妙だとか言いながら、最後はめっちゃ乗ってたのはどこの誰でしたっけ?」 「ちょっ!? それは言うなさ。」 室町さんが揶揄うように言うと、与座さんが、決まり悪そうに頭を掻いた。

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