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第19話
「あっ!?」
あろうことか瓶を掴んだはずが僕の指先が滑り、瓶はそのまま真っ直ぐ倒れた。
スローモーションのように冷酒は、白坂さんに向かって零れていき、テーブルの上に転がった。幸い半分くらいしか残っていなかったので、量は多くはないけど、それはテーブルと彼のジャケットの左ポケットの辺りを濡らした。
僕は、手を伸ばしたまま呆然とただその有り様を見ている事しかできなかった。
「名取さん、手引っ込めないと濡れるっ‼」
「!?」
白坂さんの手が、テーブルから僕の右手を退けるように咄嗟にそれを握った。力強くて大きな手に僕の細い指が包み込まれる。
その瞬間、僕の頭は真っ白になった。
ひゃー。どうしよう。謝らなきゃいけないし、僕が拭かなきゃいけないのは分かってるんだけど、僕の全神経が自分の右手に集中してしまう。
彼は、僕の気持ちなど露知らず、手を握ったまま手際よくもう一方の手で倒れた瓶を端に寄せ、手元のおしぼりで、テーブルを拭いていく。
「白坂、どさくさに紛れてやらしー。いつまでも名取くんの手握ってんの? 困ってんじゃん。」
「名取さん、すみません。すぐ振りほどいてくれてよかったのに。」
室町さんに指摘され、白坂さんの手が僕から離れていった。彼の温もりが消えた右手が、なんだか淋しい。僕は、自分のそれを慰めるように左手をそれに重ね、ゆっくりと自分の膝の上に置いた。
「白坂の握りが強かったから、名取が振りほどけなかったんだろ?」
与座さんが、余計なことを言う。
「悪い。痛かった?」
「違います。違います。痛くも痒くもなかったです。与座さん、余計なこと言わないで下さい。ホント……えーと、謝らなきゃいけないのは僕の方なのに。零してしまって、ごめんなさい。弁償します。」
僕は、言葉を捲し立てるように言い、頭を下げた。
「名取さん、大したことないから、顔上げてください。」
「でも……。」
「大丈夫だから。」
「……。」
ゆっくりと顔を上げるとそこには、僕を見つめて優しく微笑む白坂さんの顔が、あった。本当に彼の微笑みって、安堵感があって、心が和らぐ。
「白坂、平気ぶってるけど、マジでポケットのスマホ大丈夫?ほら、さっきのお前のハンカチ。」
「あ、ヤベ。ポケットにスマホいれたっけ。室町さん、ありがとうございます。」
白坂さんは、室町さんから先程貸したハンカチを受け取り、右ポケットからスマホを取り出した。そして、紺色の革のスマホカバーを軽く拭き、中を開いた。
「……スマホ本当に大丈夫ですか?」
恐る恐る聞く。
「そんな気にすんなよ。もしも壊れても機種変してデータ書き換えりゃいいだけだしな。5年も使ってるからちょうどいい機会だよ。」
あっけらかんとした口調で話しながら、彼が画面を操作する。
5年って、バンド時代から使ってるってことかぁ。僕まだ高3だったよ。まさか5年後にSAKUさんにお酒を掛けるなんていう失態をやらかすなんてあの頃じゃ思いもよらなかったなぁ。しかも短髪スーツ眼鏡がものすごく似合うことも実は虫が大の苦手で、僕が彼のために追っ払う事になるなんて、目の前で今日体験した全てが信じられないくらいだよ。
「名取さん、ちゃんと操作もできるし問題ねえよ。だから、そんな顔すんなって。ほら、な?」
「!?」
白坂さんが、僕に自分のスマホ画面を見せてくれた。それは、すぐに消えてしまったけど、明らかに彼が今返信したばかりのLINEの画面だった。
スマホが使えてるってことは安心したけど、それよりもLINEの内容が、僕には衝撃的だった。
『冷蔵庫のパプリカのピクルスがなくなったよ。(怒りマーク)20:01』
『了解。今日は無理だから明日作る。21:17 』
だって、この内容って、白坂さんは誰かと一緒に住んでるってことだよね?さっき彼女は3年いないって、言ってたし、僕にも彼女がいないって、言ってたのに。まさか彼女はいないけど、奥さんはいるとかそんなオチじゃないよね? 白坂さんが、奥さんがいるのに合コンに来るとかそんな軽い人だなんて思いたくないよ。
「白坂ぁ、名取がますます泣きそうになってんぞ。なんかホラーな画像でも見せたのかよ。」
「そんなの見せてないですよ。見せたのは同居人とのLINEです。ちょうど返信したばっかのやつだから、その部分だけそのままちらっと見せただけですよ。」
白坂さんが、スマホをテーブルの端に置き、ジャケットのポケットをハンカチでトントンと拭く。
「お前、さっき3年女いないって言ったよな?」
「ええ。言いましたよ。それは本当ですって。同居してるのは、男です。ただの友達です。」
与座さんが、前のめりで半ば脅すような口調で言うと白坂さんは、表情ひとつ変えず堂々と答えた。
なんだぁ。お友だちかぁ。なんで僕そんな単純な事が思い付かなかったんだろう。LLのラジオでよくバンドメンバー全員との同居生活でのエピソードを話してくれてたのに。解散間際はあまりその話をしてくれなくなっちゃったけど。
心の中で、僕はそっと胸を撫で下ろす。
「だよな。悪いな、疑って。じゃなかったら名取に簡単に見せないよな?」
「そうですよ。それにそもそも彼女がいたら、合コンなんて来ませんよ。」
そう言って、白坂さんはジャケットを持って立ち上がり、僕に背をむけてハンガーにそれを掛けた。
ジャケットを着ていたときよりも薄着になった分肩幅や背中の広さや腕の太さと長さが強調され、僕は、その体躯の良さに目を奪われ、ただハンガーにジャケットを掛けているだけなのに一挙手一投足から目が離せない。無意識に口が半開きになってしまう。
ジャケットを掛け終え、彼が再び前を向き直した。僕は、咄嗟に口を手で覆った。
うわぁ。前から見ても淡い水色のシャツが爽やかで似合っている上に厚みのある胸板が男らしくって、素敵だ。
「名取さん、本当に体調大丈夫ですか?」
逸らすつもりが、席に座ろうとした彼と目が合ってしまった。
「だ、大丈夫です。お気遣いありがとうございます。」
「それなら、いいんですけど。」
僕が、ぎこちない笑みを返すと彼はにっこり微笑み、席に座った。
ひゃー。シャツ姿の白坂さんに見惚れてました。なんて、絶対言えないよぉ。当時は、ファンレターに『アルバムのジャケットの10ページ目のSAKUさんが、めちゃくちゃ格好いいです。』とか全然余裕で書いて送ってたけど、知り合いになった以上は、心の声は封印しないとね。
「でも、なんで名取は、たかがひとのLINE見たくらいで泣きそうになってたんだ?」
与座さんのがさついた声が、僕を一気に現実に引き戻した。その話は解決したから蒸し返さないで欲しいよ。
「別になってませんよ。与座さんの気のせいです。スマホも無事だったんですし、その話はもう止めて早く次いきましょう。」
素っ気なく返し、お猪口のお酒を一気に飲む。ちょっとだけくらっときたけど、多分大丈夫。
「名取くん、やる気だねえ。」
「はい。僕、一度くらい王様になってみたいです。」
「まだやるのか?」
「イヤですか?」
与座さんの目を見つめた。
「いや……。嫌とは言ってないさ。さっき室町が、王様の時に接触系で来たから次も室町だったら、怖いなと思って。ほら、お前スキンシップ苦手だろ?」
「はい。」
与座さんが、僕の両肩に手を置いた。
もう、僕がスキンシップ苦手だってわかってるんだったら、肩に手を置かないで欲しいよ。
避けるのも面倒くさくなってきたので、僕はこのまま受け入れることにした。肩に手を乗せてるくらいなら痛くないからこの際気にしないでおこう。
「与座さん、次どうしますか?」
白坂さんの少し低くて耳心地のいい声が、淀んだ感情を浄化するように僕の耳に響いた。
「ああ。同じのでいいよ。」
与座さんが僕から手を離し、自分のグラスを掲げた。
白坂さん、もしかして僕の事助けてくれたのかな?
「はい。了解です。」
「白坂、そろそろラストオーダーの時間だから、店員くるんじゃない?そしたら、頼めば?」
「そうですね。そうします。室町さんは?」
「ああ。俺は考えとく。それよりもその間に名取くん、白坂に酒注いでやって。こいつどさくさに紛れて酔いを冷まそうとしてるから。」
「おい、そうなのかよ?」
「ちょっと、お二人とも違いますよ。」
白坂さんが、ふたりの攻撃に苦笑いを浮かべる。こういう時になにかフォローの言葉でも言えたらいいのにな。口下手な自分がもどかしい。
僕は、視線を彷徨せ、ひとり反省する。すると白坂さんの視線に気づいた。
「名取さん、お酒お願いしてもいいですか?」
「はい。あ……さっきは本当にすみませんでした。」
「もう。そのことはいいよ。はい。」
彼が眉根を寄せて、困ったような笑みを浮かべ、僕に冷酒の瓶を手渡してくれた。
「わぁ。ありがとうございます。」
「礼を言うのは、こっちだよ。」
「……。」
僕は、それを両手でしっかりと受けとると彼のお猪口に慎重にお酒を注いだ。今度は、溢すことなく無事に注ぐことができた。そして、彼は、親指と人差し指でお猪口を持ち直し、くいっと一口飲み、口に含んでから目を閉じた。溜飲と共に太い首にくっきりと浮かぶ喉仏が上下する。
「寝てるかと思いました。」
「それって、さっき俺が言ったやつだろ?」
「はい。」
さっき僕が言われた言葉を言ってみると白坂さんが、 笑いを堪えながら瞼を開けた。
「あれはさ。さっきは、名取さんが本当に寝そうな雰囲気だったから。」
「ひどいなぁ。僕、お酒飲んでる途中で寝たりしませんよぉー。」
「そうかぁ?」
「そうです。」
僕も笑いを堪えながら、言葉を返す。
なんだかよくわかんないけど、お互いに笑ったら負けみたいな空気が、流れていてそれが逆におかしくて仕方がない。僕、あまりしゃべるのは得意じゃないけど、白坂さんとだったらこんな感じで、ずっと喋れるような気がしちゃうもんな。初対面で、しかもまだ出逢って3時間も経っていないのにこんな風に思える人は初めてだ。
昔、憧れていた芸能人だからとかじゃなくて、今、目の前にいる人と交わすやりとりが愛しい。
この気持ちは、なんて呼べばいいんだろう?
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