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第二章・黒龍の鱗④[改訂]

 芥川が脚を向けたのは今はもう使われていない廃屋。嘗て幹部だった頃の太宰が組織の煩わしさから逃れる為秘密裏に用意した秘密の隠れ家だった。其の場所を知っているのは太宰の他には直属の部下である芥川しか居ない。  雨露を凌ぐ最低限の屋根と壁、埃を被った本が何冊か置かれた古びた本棚、睡眠を取る為の寝台が一つ置かれている程度で長期間の生活には不向きだった。然し一見物置にしか見えない本棚に指を掛け横方向へと滑らせると本棚と同じ大きさの穴が壁に開いている。此れこそが太宰が独自に作った隠し部屋で、仮に隠れ家自体が敵に見付かった場合も隠れ逃げ果せる事が出来る。  芥川は本棚を動かし奥へ続く闇へと石段を降りる。碌に手入れすらして居なかった此の隠れ家は、太宰の出奔後定期的に芥川が管理をしていたが秘密裏に行うには限りが有り、周囲から漏れ出た地下水が不定期に音を響かせる。  ――其の部屋の奥に太宰の姿が在った。  元々捕虜を投獄する目的で作られた此の地下室は、天井から頑丈な鎖が吊り下がっており其の先端には手枷が固定されている。  手慣れた人物は髪留め一つさえ在れば手錠程度は簡単に外して仕舞う。勿論其れを踏まえ鍵穴の存在しない形式の強固な手枷を選択しているが、従来の手枷と異なる処は対象の親指同士も固定出来る点に在る。其の手枷を採用したのは本来太宰の発案であったが、今其れが讎となり、其の手枷には太宰自身が繋がれて居る。  両腕を頭上で纏める形で拘束され、老朽化した寝台の上に座して居る。目許は黒い布で覆われ、口許には自殺防止の口輪を嵌められた状態の太宰は薄暗い地下牢の中、一目では生きているのかすら判らない。  一つ咳をした芥川が歩み寄り、頭部で留めた口輪の枷を外すと唾液を伝わせ穴の空いた球が添えた手の上に落ちる。 「懐かしい場所だ」  口火を切ったのは太宰だった。目を覚ましてから耳から入る情報のみから此の場所が嘗て根城にして居た隠れ家の一つである事に気付いた事は流石としか表現せざるを得ない。  口輪を外した直後自殺に走る事も無く、其の心配は無用だったかと心無し安堵する芥川ではあったが、即座の自殺意志が太宰に無いという事は倍以上の反撃を受けるおそれも有る。  芥川が寝台に膝を着き乗り上げると、ぎしり、と古びた鉄の音がする。外した口輪は衣嚢の中へと隠し込み、目隠しこそ其の儘に、身を近付け頬に触れる。今迄に此処迄接近出来た事があっただろうか。早鐘を打つ心臓の音が伝わらぬようにと芥川は顔を傾け寄せる。 「…………何故に」  互いの唇が触れ合う其の瞬間、見えて居ない筈の太宰が触れた手とは逆方面へと顔を背けた。まるで接吻を拒む行動に芥川は短く息を吸い込み、其の儘止まる。芥川の心の軋みを嘲笑うよう太宰は口角を釣り上げる。 「私の唇は、そんなに安くは無いのだよ」  一瞬にして全身の血液が沸騰したように感じた。そして湧き上がる激しい憤怒。  爪が深く食い込む程拳を握り、怒りの儘に太宰の頬を打つ。咥内に裂傷が生じ僅かな血液を吐き出しつつ太宰の顔が打った側へと向く。天井に繋がる鎖は大きく揺れ重苦しい鉄音を響かせた。  太宰の胸倉を掴み、唇を噛み締める。殺して仕舞いたい今直ぐにでも。自分を受け入れ無い太宰を此の場で亡き者にする事等、今の芥川には造作も無い事だった。 「……ふっ」  然し其れでは今迄の時間を凡て不意にして仕舞う事に為る。殺す事はいつでも出来る。両手の自由を奪っている限り太宰が此の場所から逃げる術は皆無。此の場所は二人以外誰も知らない。  胸倉を掴んだ儘手を払えば太宰の襯衣の鈕は弾け飛び、光の射さない水浸しの床に転がる。露見した白い素肌には昔と変わらず白い包帯が巻かれ、色素に準じて鴇色の突起が張り善く屹立を示して居た。然し其の白い素肌に幾つもの赤い接吻痕と噛み痕が残されている事を目の当たりにすると芥川は奥歯を噛み締める。 「躰の方は、随分と安いようだが?」  顔の上半分を目隠しで覆われていた為、芥川からは見えなかったが太宰の瞳は確かに揺れた。

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