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ネコの視点-1-

 最初は石だった。  保育園の遠足で行った先で拾った、丸くて翠がかったキレイな石。  楽しかった遠足の思い出の品として、その楽しかった気持ちを少しでも分けられたらと、持ち帰って母に見せた。  幼い僕は喜んで貰えると疑いもせずにいたが、母は僕の手の中の石を見るなり、それを取り上げた。 「汚い物を拾って来てはいけません」  母が石を庭に投げ捨てるのを見て、ふわふわと膨らんでいた楽しい気持ちが一気に萎み、自分の部屋に駆け込むと、子供用ベッドに潜り込み泣いた。  そしてそれ以降、僕が何かを拾って帰る事は無くなった。  次は確か、小学校のクラスメイトから貰った誕生日プレゼントだ。  貰った事を母に伏せこっそり隠し持っていたが、僕が学校へ行っている間にソフトビニール製の小さなキャラクター人形は処分されていた。  隠し持っていたうしろめたさから、俯きながら恐る恐る人形の所在を訊けば、母は静かな声で。 「勉強に関係ない物は必要ありません」  何かを持って帰えれば取り上げられると子供ながらに悟った僕は、その後人から物を貰う事を避けるようになった。  母と喜びを分かち合う事が出来ず、人からの好意を受け入れられないのは悲しかったが、それでも勉強を怠らず良い成績を取っていれば友達と遊ぶ事は許されていた。  だが、体調を崩し中学受験を失敗した事で母の僕に対する監視は強くなった。  優秀な兄が全寮制の高校へ進学し手が離れた事もあるだろう。  十五分刻みの行動予定表を組まされ、チェックを受け、問題が無ければ翌日にそれをこなす。  休憩時間は有っても遊ぶ時間は無い。  窮屈で鬱屈とした毎日。  それでも母の目の届かない学校にいる時はまだ呼吸が楽だった。  だというのに、その安息の地までも母は取り上げた。  中学受験の失敗を僕を遊びに誘ったクラスメイトの所為だと思い込んでいた母は、参観日に僕がクラスメイトと会話している姿を見るなり「そんな低レベルな人間と付き合ってはいけません」と捲くし立てた。  平穏な学校生活を守ろうと必死に釈明したが、母に僕の言葉は届かなかった。  その日だけでも母のクラスメイト達への蔑視的な発言は酷かった。  正直言って翌日学校へ行く事に恐怖を覚えたほどだ。  暗澹《あんたん》たる思いで学校へ行くと、クラスメイト達は強烈キャラの母親を持って大変だと同情的な言葉をかけてくれた。  味方が居る。  それが嬉しくて思わず涙ぐんでしまったのを覚えている。  けれどその味方が敵に変わるのは、そう遅い事ではなかった。  参観日後。母が何度と無く学校へやって来ては担任に対してクレームを付けていた事から担任の僕に対する当たりが強くなり、それに釣られるようにクラスメイト達も僕を蔑視するようになった。  昨日まで冗談を言って笑っていた相手の手のひらを返した態度にショックを受けたが、泣く訳にはいかなかった。反応を返せば相手を喜ばせるだけだと分かっていたから……。  原因である母にも嫌がらせを誘発させた担任にも泣き付く事は出来ず、堪えるだけの日々。  四面楚歌の状況で唯一の心の支えは三年間という時間の区切りだった。  兄のように全寮制の高校へ入れば家から出られる。  母という存在が無ければ呼吸が楽になる。  そう信じて日々の心無い言葉にも悪意の篭った仕打ちにも堪え続けた。  たかが三年間。  その考えは甘いと直ぐに思い知った。  平然としていても平気な訳ではない。  毎日落とされる悪意と言う名のドス黒いインクは心に染みを作り、それは消える事はなく色を濃くし、その範囲を広げ、僕の胸を重くしていった。  悪意は伝播し、二年と三年生からも嫌がらせを受けるようになった。  クラスだけでなく学校全ての人間が敵なのだと、絶望と孤独にグラグラと心が揺れていたが、それでも平然を装った。  隙を見せればもっと酷い事になるような気がして……。  自分に非がない限り毅然とした態度で有るべきだと、嫌がらせに屈する事無く真っ直ぐ前を見ていたが、そんな態度が気に入らなかったのか嫌がらせはどんどんエスカレートしていった。  私物に落書きをされ、破かれ、捨てられる。  低俗な行いをする連中も、それを見てみぬフリする教師にも吐き気を覚え食事がまともに取れなくなっていた頃だった。  三年の不良三人に裏庭に引き摺られ連れて行かれると、虫が大量に詰められたペットボトルを突きつけられ「虫を食いたくなければ金を定期的に運んで来い」と脅された。  僕の家がそこそこ裕福だと知られてから学年問わずこの手の要求はされたが、その都度断固として拒否してきた。  勿論、その時も拒否したが、大嫌いな虫を頭に落とされた僕はパニックを起こしただ只管に「嫌だ」と叫び続けた。  掴まれた腕を振り払おうと藻掻くが三年二人の力に叶うわけも無く、惨めたらしく心の中で『何で』と繰り返す。  何でこんな事になった!  何でこんな目に遭わなくてはいけない!  何で誰もこのくだらない行為をやめようとは言わない!  何で誰も助けない!  何で……! 何で……! 何で……!  何で……! 何で……!  何で……!  僕が一体何をしたと言うんだ!!  感情が高ぶり、泣き出しそうになったその時だった。  物陰からこちらを窺っている人影が目に入り、凝視すると同じクラスの大黒(おおぐろ)恭路(ゆきじ)だった。  僕が虫を無理矢理食べさせられる様を笑いながら見物するのだろうと、怒りと悲しみで顔が引き攣る。  最悪な状況と最低なクラスメイトに目頭が熱くなり、必死に涙を堪えていると……。 「あーー。悪いんですけどそいつ俺の財布なんで返して貰っていいですか?」  意味不明な言葉を持って大黒恭路は三年の前に立ちはだかり、僕を三年の不良三人組から助けてくれたのだった。  敵しかいない学校で突如差し出された手を疑ってかかるが、金を要求された事で納得がいった。  金が欲しいだけ。  脅して金を巻き上げようとしていた連中と同じ。  ふざけるなと突っぱねたが、ビジネスだと持ちかけられた話はとても魅力的だった。 『週千円で学校生活が穏やかになる』  この状況から抜け出せる。  働いてもいない身で金銭の遣り取りなどしてはいけないと分かってはいた。  だが、もう限界だったのだ。  常に行動を監視される家に居場所の無い学校。  心休まる事のない日々に気がおかしくなりそうだった。  脅されて渡せば明らかな上下関係となるが、ビジネスとすれば対等な関係となる。  恥じる事はないと自分を騙し、僕は大黒恭路の手を取ったのだった。  大黒恭路は百六十センチの僕より頭一つ分背が高く、少年と青年の間ほどの体格で、襟足まで刈り上げるツーブロックショートと呼ばれる髪型に男らしい整った顔立ちから入学当初から女子達に人気があり、金色に染めた髪と裏地にドラゴンの刺繍の入った短ランにゴテゴテとしたシルバーアクセサリーを身に付けていた事から教師と校内外の不良に目を付けられていた。  弱い者イジメや自分から喧嘩を売る事は無かったが、売られた喧嘩は全て買い、そして全勝していると噂で聞いていた。  そんな彼がなんで僕を助けてくれる気になったのかは分からないが、彼の財布という建前は嫌がらせ防止にとても役立った。  僕に何かあれば大黒が出てくると誰しもが怯え、表立って嫌がらせをされる事はなくなった。勿論、全てではないが。  彼と言う盾があれば三年間を耐え切れると確信した僕は、彼の存在を母に知られないように必死に隠した。  携帯電話の番号とメールアドレスを教えてもらったが、そんな物を登録すればすぐさまバレてしまう為、番号もアドレスも暗記し受け取ったメモは直ぐに千切って捨てた。  一緒に帰ろうと誘われても何処で誰に目撃され、母の耳に入るか分からない為に断った。  遊びに行こうと誘われてもやはり断った。  本当は一度として足を踏み入れた事のないゲームセンターやカラオケボックスに行ってみたかったが、彼を取り上げられたくない僕はそれらを諦めた。  馴れ合えばボロが出ると一定の距離を保ち続け、必要最低限の会話に徹した。  友達とふざけあって笑っている顔を盗み見るだけで十分だった。  僕に向けられた言葉でなくても、声を聞いているだけで安心した。  呼吸が楽に出来る大黒恭路(ばしょ)を守る為、僕は彼を拒絶し続けた。  そして三年という月日が経ち、卒業式を迎えた日。  呼吸が楽に出来る大黒恭路(ばしょ)を守りきった事。兄が通っていた全寮制の高校へ受かり、母の監視下から解き放たれ、自由を手に入れられる高揚感に胸が一杯だった。  もう我慢しなくていいのだと。  一度としてかける事の出来なかった電話番号へ何時でもかけられる!  メールアドレスへメッセージを送る事が出来る!  休日を利用して遊びに行ける!  これまで歪だった関係を修正出来る!  そんな思いを抱え、卒業式後に来る様に言われていた公園へ向かうと大黒は唐突に紙袋を差し出した。 「これ、今まで報酬として受け取っていた金。一切手ぇ付けてないから」  何故そんな物を突きつけられるのか分からなかった。  もしかしたら歪な関係を修正する為かと思ったが、彼の放った言葉で僕が思い違いしていた事に漸く気が付いた。 「お役御免って事で返すわ」  卒業を期に雇い主と用心棒という関係から別の何かに変わると信じて疑っていなかったが、そうではなかった。  卒業と同時に全てが終わる。  ただ、それだけだったのだと……。  大切に守ってきた物がずるりと手から零れた喪失感に眩暈を覚えた。  崩れてしまわないようにと必死に踏ん張り、大黒を見ると差し出した封筒を受け取ってもらえずに困っているようだった。  受け取れば本当に全てが終わってしまう。  そんな事、受け入れたくない僕は無言のまま立ち尽くしていると、大黒は封筒で胸を突っつき受け取るようにと催促した。  嫌だと冗談ではないと何時ものように言いたいのに言葉が出て来ない。  嫌がらせに負けないようにと三年間培ってきたポーカーフェイスはこんな時にでも崩れない。いや、こんな時だからこそか……。  何時までも封筒を受け取らずにはいられない。  何より金を返す事で繋がりを断とうとしている大黒を困らせるだけだと、ぎごちない動きで封筒を受け取る。  すると大黒は僕の頭をグシャグシャに撫でた。 「高校では上手くやれよ」  大黒にとってそれは応援の言葉だったのだろうが『さよなら』と『自分達はもう関係はない』のだと言われた様で胸が痛んだ。  立ち去ろうとする大黒の背に『待ってくれ』と言いたいのに喉が詰まり言葉が出て来ない。  例え言えたとしても、その後なんと続ければ彼を繋ぎ止められるのか分からない。  親ともまともなコミュニケーションも取れず、他人との関係も諦め続けてきた僕に人に縋りつく術など有りはせず、ただ遠退く背中を見ている事しか出来なかった。

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