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ネコの視点-2-

 全寮制の高校へ入学した僕は母の監視から解放された。  学校の寮である以上守るべきルールはあった。  だが、飲食物、衣服、読む物、観る物、行動の全てを管理されていた家に比べればとても自由だった。  中学の様に僕を無視する人間も、誹謗中傷する人間も、脅す人間も危害を加える人間も居ない。  何も無い穏やかな日々。  好きな物を食べ、好きな物を飲み、好きな物を読んで好きな物を観て、好きな物を買って手元に置く。  誰の許可も要らない自由な日々。  だと言うのに、毎日側に有った気配が、声が、顔が無いと思うと酷く息苦しかった。  失った存在の大きさを感じながら単調な生活を送っていると、三年生から新入生歓迎会を行うと通達が来た。  正直歓迎会などどうでもよかったが、全員参加だと言われれば断る事も出来ず、渋々参加するとそれは新入生歓迎会と言う名のアダルトDVD上演会だった。  猥褻物との接触を厳しく母に制限されていた為、僕の性交渉に関しての知識は中学校での授業レベルだった為、いずれ実践する日が来た時に何か不備があってはいけないと勉強がてら見ていたが、周りの同級生が興奮を覚えている中、僕だけが冷めていた。  自分の身体に何か問題が有るのではないかと一瞬焦りを覚えたが、初めて観た衝撃的な映像に驚いただけだろうと結論付け、その日は終わった。  けれど、二度目三度目とアダルトDVD上演会に参加しても下半身が興奮を覚える事は無く、不安を感じていたところに伊部《いべ》という三年の先輩から呼び出され、一枚のDVDを手渡された。  男同士のDVDだから一人で観る様に言われ、自分には不必要だと断ったが伊部先輩はDVDを僕の手の中に残したまま部屋に戻ってしまった為、仕方なく部屋に持ち帰る事となった。  観ずに返せばいいだろうと机の引き出しにしまったものの、もしも自分がそうだったとしたら……。  そう考えると落ち着かず、散々思い悩んだ末に疑惑を払拭する為だと自分に言い聞かせ、DVDを観る決意をした。  僕の部屋は個室だった為、部屋の鍵を閉めヘッドフォンさえすれば何を観ているかなど知られる恐れは無いが、人に言えない事をしている為にDVDをパッケージから取り出すだけでも怖かった。  後ろめたさを感じつつパソコンへセットし、再生させる。  学校が舞台の様で高校生役の美青年がいけない事をし先生役の美青年がお仕置きをするというストーリーの様で生徒役の青年が縛られ先生役の青年に淫らな行為を強要されていた。  何も感じなければただの身体の不調で済んだのに……。  僕の下半身は確りと反応を示していた。  熱を持った下半身とは反対に冷めた心は絶望に打ち震え、何時の間にか僕は泣いていた。  DVD返却時に伊部先輩に感想を聞かれたが、僕には不要な物だったと嘘を吐いた。  こんな物を持っているという事は伊部先輩は同性愛者なのだろう。  僕を同士だと勘付き、親切心から貸してくれたに違いない。  だが、昨日まで親しくしていた人間が手の平を返し、攻撃してくる怖さを知っていた僕には本当の事は言えなかった。  完璧であれ。優秀であれと呪いの様に母に刷り込まれていた僕は自分の性癖が大きな傷に感じられ、怖かった。  偏見の塊のような母がこの事を知ったら何と言われるだろうか?  これまで投げつけられた全ての罵倒が次々と脳裏に浮かび、胃が引き攣る。  家から出た所為でこうなったのだと、家に連れ戻され再び監視生活になったらと考えただけで身が竦んだ。  知られてはいけない。  誰にも決して……。  見えない傷を隠すように膝を抱え、僕は自分を抱きしめながら泣いた。  誰にも言えない秘密を抱え『人と違う』『普通じゃない』事がバレたらと気の休まらない日々を送っていた僕は上手く眠る事が出来ず、食事も半分も食べられなくなり、日に日に憔悴していった。  クラスメイトをはじめ寮の先輩達からも心配されたが、隙を見せる訳にはいかず、大丈夫だとだけ伝えた。  周りは親切で優しい人達ばかりなのに中学時代の事が原因で人間不信気味の僕は誰の手も取れず、一人でいた。  誰かに告白したいのに、誰に話せない。  人を信じたいのに、誰の事も信じられない。  必死にバランスを取ろうとするが、平衡感覚を失いつつある心はグラグラと揺れ情緒不安定となり、救いを求めるように唯一見方で居てくれた存在に縋る様に夢を見るようになった。  不眠症の為短い睡眠時間で見る夢。  夢を見ている間は幸せだが、その分朝目が醒めた時の喪失感は酷かった。  夢の中でいくら大黒に慰められようとそんな物はまやかしでしかなく、不安や恐怖。絶望と孤独から解放される訳ではなかった。  温かい夢と冷たい現実を彷徨いながら、暇があれば携帯電話を見詰める。  母からの着信履歴しかない携帯電話。  着信履歴を残す訳にはいかなかった為、大黒に電話番号もメールアドレスも教えていないからかかってくる事は無い。  かかってこないならこちらからかける以外無いが、思い切れない僕はただ手の中の携帯を見詰めるだけだった。  毎日。  毎日。  ただ見詰めるだけ……。 「電話かけないのか?」  学校から寮への帰り道、突如かけられた声に振り返れば伊部先輩が居た。 「……履歴が、残ると困るんです」 「それなら寮の隣に設置されている公衆電話使えばいいんじゃないの?」 「公衆電話?」 「うん。ビビるほど十円玉食われるから長電話出来ないけどね」  公衆電話……。  そんな物が寮の隣に有ったのかと、伊部先輩に礼も言う事無くふらふらと覚束無い足取りで寮へ戻った。  意識していなかったからか、今まで気付かなかったがそれは寮の裏にあった。  電話ボックスに入り受話器を持ち上げるものの雇い主と用心棒という関係すらない僕が電話してもいいものかと躊躇いを覚えそのまま立ち尽くす。  ぼんやりと緑色の電話を見ていると何かを叩く音が聞こえ、見れば電話ボックスの扉を開き伊部先輩が中に入ってきた。 「使い方分からないの?」 「いえ…その…」  伊部先輩は財布から十円玉を何枚か取り出すと公衆電話の投入口にそれを滑り込ませた。 「後は番号を押すだけ。番号は分かってるんだろ?」 「あの、かけていいのか分からなくて……」 「番号を教えられているって事はかけていいって事だろ」 「ですが……」 「いいからかける!」  伊部先輩は僕の肩をポンポンと叩くとボックスから出て行った。  透明なボックスの向こうでボタンを押すようにジェスチャーで指示され、震える指で記憶に刻んでいた番号を押すと呼び出し音が何度か繰り返された後に耳に馴染んだ声が聞こえ、安堵から涙が零れた。  不安な気持ちを吐露しようと口を開くが、言葉が出てこなかった。  何と言えばいいのか分からず、無言で居ると受話器の向こうから苛立った声が聞こえ、慌てて名前を名乗ろうとするがそれすらも出来ず、電話は切れてしまった。  何も話せなかったが、大黒の声を聞いただけでほんの少し気持ちが落ち着いた。  教えられた番号が繋がったという事で、まだ彼との繋がりが完全に切れた訳ではないと思え、僅かに心のバランスが取り戻せた気がした。  それから僕は一ヶ月に一回、公衆電話から大黒に電話するようになった。  とは言っても、大黒の番号に繋がるかの確認と彼の声を聞く為だけにかけていたから、こちらが言葉を発する事はしなかった。下手な事を言って拒絶の言葉を聞くよりも、無言電話に対する苛立った声を聞いていた方が良かったから。 『毎月律儀にかけてきやがって何処の暇人だよ』 『女にかけるなら分かるけど野郎の声聞いて楽しいのかよ』 『無言電話する暇あったら別の事しろよ』  百円分の時間に聞く大黒の声が僕の心の安定剤だった。  不安も恐怖も何も解決してはいなかったが、味方がいると思う事で色々なものを誤魔化しながら高校生活を送り続けた。  高校生活もあと三ヶ月で終わる頃。  推薦入学が決まっていた僕は出席日数の為だけに学校へ行っていた。  判で押したような日々で唯一特別な日。  その日。何時ものように学校から戻ると公衆電話から大黒の携帯電話にかけるが、呼び出し音の変わりに『現在使われていません』とアナウンスが繰り返された。  ボタンを押し間違えたのかと何度もかけ直すが『現在使われていません』とアナウンスが繰り返されるだけだった。 「うそ…なんで……」  ずっと繋がっていたものが断ち切れた。  切られた……。  どうして……。  何で……。  騙し騙しバランスを取っていた心が一気に傾き、半狂乱となった僕は電話ボックスから飛び出した。  下校中の生徒にぶつかりながら闇雲に走り、十字路で右肩に強い衝撃を受けた次の瞬間、視界が一回転した。  全身をアスファルトの地面に打ち付けた痛みから起き上がれずにいると、衝突相手と思われる男の大きく逞しい腕に抱き起こされた。 「すまん。大丈夫か?」  問いかけには答えず、腕の主が誰か分からないまま僕は男の胸倉を掴んだ。 「おい。何処か痛いのか?」  醜態を晒すまいと……。  人前で泣く事はしないと……。  厳しく律していたが、溢れ出てくる感情を止める事が出来ず誰とも知れぬ者に縋り、その胸で泣いてしまった。

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