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ネコの視点-3-
散々泣いた事でグチャグチャだった感情が少し落ち着いた。
僕が落ち着きを取り戻したのを見計らって、腕の主は僕が怪我をしていないかを簡単に確認すると、往来でこれ以上恥を晒すのを不憫に思ったのか。
「寮に戻ろう」
そう言って僕の腕を引っ張った。
何度か立ち上がるように催促されるが、無視していると業を煮やした腕の主は、問答無用で僕を背負いそのまま歩き出した。
道行く人に奇異の目で見られたが、感情が混濁している今、そんな事を気に出来る余裕は無く、寮の部屋に着くまでの間、なすがままに運ばれた。
「平気か?」
問われ、改めて見てみれば、腕の主は数ヶ月前まで柔道部主将を務めていた下の階に住む鷲山 だった。
「迷惑をかけて、すまない」
ベッドに腰掛けたまま頭を下げると鷲山は百八十センチ以上の巨体を屈ませ僕を覗き見た。
「何かあったのか?」
「何も…無いよ」
「何も無くて何時も冷静沈着なお前が泣くとは思えないけどな」
「君には関係無い」
隣のクラスだった為、挨拶を交わした事はあるが、それだけの人間にこれ以上の醜態を晒す訳にはいかないと素っ気無い言い方となってしまった。
申し訳ない事をしたかもしれないと窺い見ると、鷲山は困ったと言うように眉を寄せていた。
「まぁ、確かに関係ないな。けど、愚痴聞くくらいなら出来るぞ」
「……聞いて欲しい愚痴など無い」
「泣いていただろう?」
「全身を打ちつけたショックでだ」
「そっか……」
頑なな僕の態度に呆れたのか鷲山は溜息を吐くと立ち上がった。
「怪我はしていないと思うが、後で痛みが出る場合もある。何かあれば俺か寮長に言えよ」
立ち去ろうとする後姿があの日の大黒のものと重なり、不安に襲われつい立ち上がってしまった。
「あ……」
振り返った鷲山と目が合い、言葉が出なかった。
『何でもない』と言いたいのに……。
言わないといけないのに、喉が詰まり声が出ない。
胸を押さえゼェゼェと呼吸を繰り返す僕に鷲山は慌てて駆け寄る。
「落ち着け志波! ゆっくりでいいから……慌てなくていいから……」
肩を抱かれ、ベッドに座らされるとそのまま背中を摩られた。
「大丈夫だからな。無理するな」
言葉と共に背中を摩られ続け、苦しかった呼吸が徐々に楽になり落ち着きを取り戻すが、それでも鷲山は背中を摩り続けた。
身体に触れられているからか、大黒の事で気が動転しているからなのか、重かった口からぽろりと言葉が零れた。
「け……携帯が…繋がらないんだ……」
「うん?」
「使われていないと…流れて…どうして……」
僕の不明瞭な質問に鷲山は少し考えて。
「使われていないは解約したって事だろう。後日機種変更したとか何とか連絡が来るんじゃないのか?」
「……無理だ、相手は僕の番号を知らない」
「そうか…それなら共通の友人に訊いてみるとかは?」
大黒以外の番号を知らない僕は首を左右に振った。
「なら、手紙は? 住所は分かるか?」
首を横に振る。
「住所が分からないんじゃ会いに行くのも無理か……」
「家の場所なら…知っている」
「そうか。それじゃあ会いに行ったらいい」
「無理だ。出来ない」
「何でだ?」
何で?
だって…そんなの……。
僕は彼に切られた人間なんだ。
繋がりの証の金を突き返され『頑張れよ』と背を向けられた。
そんな人間がのこのこ会いに行ける訳がない。
会いに行って迷惑な顔をされたら……。
関係ないと言われたら……。
そんな怖い事は出来ないと首を横に振る。
「一人で行き辛いなら一緒に付いて行こうか?」
「やっ…止めてくれ。そんな…迷惑だ…」
好意に対して不適当な返事に鷲山は怒るどころか逆に謝った。
「そうだな。出すぎた事を言ってすまん。今は兎に角落ち着こうな」
そう言って僕の震えが治まるまで鷲山は背中を摩り続けた。
鷲山は柔道部主将を任されていただけあって責任感が強く面倒見が良いのだろう。
醜態を晒した日の翌日から毎日僕を構う様になった。
受験前の大切な時期に時間を無駄にするなと言えば「スポーツ推薦が決まっているから大丈夫」だと言われ。
目障りだと言えば「受験を控えている連中にとって推薦で決まっている俺等は目障りだろうから視界に入らないようにするか」と駅前のショッピングモールに連れ出された。
何をしていいか分からないゲームセンターに連れて行かれ。
食べたくも無いケーキ屋に連れて行かれ。
興味が無いくだらない話を延々と聞かされ。
毎日毎日行く場所を変えては鷲山に振り回されているうちに、大黒の電話の件が徐々に薄らいでいった。
勿論それは抜けない棘の様に胸に刺さったままだったが……。
そして卒業式を迎え、寮の部屋に戻ると何時ものように鷲山がやってきた。
「近くに居たからするの忘れていたが、番号交換しよう」
ボタンを剥ぎ取られた情け無い制服姿の鷲山に携帯を差し出したが、僕は首を横に振った。
「電話帳に他人のアドレスを記録させる訳にはいかないんだ」
「何で?」
「…は…母が、交友関係に、口うるさい人なんだ」
母がどういう人間か知られたくない僕にとって精一杯の告白だった。
制服の裾をぎゅっと握り、鷲山の反応を待っていると「そうか」と溜息交じりの声が返ってきた。
「それじゃ仕方ないな」
そう言って鷲山は玄関から立ち去った。
閉じて行く扉を見詰めながら言葉を間違えたかもしれないと後悔した。
母の事など言わずに適当な理由を話してアドレスと番号を聞いておけば良かったのかも知れないと。
そんな事を考えながら、引越しの荷造りを殆ど終え生活感を失った部屋で立ち尽くしていると再び扉がノックされた。
開けると鷲山は小さな紙を差し出した。
「随分前に友達に配るように作った名刺を発掘してきた」
受け取った名刺には電話番号とメールアドレスなどの連絡先が印字されていた。
「話す事が無くても俺の話を聞いてくれる気になったらかけてくれ」
「鷲山」
「ん?」
「このFと鳥のマークは何なんだ?」
意味不明な記号について確認すると、何故か鷲山に笑われてしまった。
高校の寮を出てそのまま大学から住む事となっているワンルームマンションへ移り住む事は許されておらず、一度実家に戻る事になっていた僕は必要最低限の荷物を持って足取り重く最寄り駅に向かった。
駅が一つ。また一つと過ぎるほどに気持ちを重くしながら流れて行く景色を見ているとあっという間に下車駅に着いてしまった。
暗澹《あんたん》たる思いで改札口を抜け、とぼとぼと歩き出す。
慣れた道を進んでいくと十字路に着いた。
真っ直ぐ進めば自宅へ。
右に曲がれば大黒の家の方に行く。
本人に会う事が出来なくとも、彼の家を見るだけでも元気が出るだろうか?
家に帰りたくない僕は、帰る時間を少しでも遅らせようと十字路を右に曲がって進んだ。
以前一度だけ教えてもらった場所をうろ覚えの記憶を頼りに進んで行くと、木造の大きな門構えの日本家屋に辿り着いた。
一目だけでも姿が見れるかも知れないと期待していたが、高い塀に遮られ中は全く見る事は出来ず、仕方ないと諦め大黒の家を後にする。
視線を足元に落とし歩いていると前方から人が近付いてくる気配を感じ目線を上げると、男女のカップルが腕を組んで歩いてきた。
黒のダウンジャケットを着た男は遠目からも背が高く均等の取れた身体をしており、金髪にシルバーアクセサリーを付け、近寄りがたい雰囲気を漂わせていた。
顔の視認が出来る距離でなかったが、それがずっと合いたいと願っていた大黒だという確信があった。
気付かれる前に引き返しそのまま逃げるべきか、腹を括って声を掛けるべきか……。
どうしたらいいか分からず、その場に立ち尽くしていると、大黒との距離は縮まりとうとうお互いの顔が視認出来る距離まで来ていた。
逸らしていた視線を大黒に向けると、記憶にある彼よりもずっと男臭さを滲ませた顔に胸が高鳴った。
久しぶりと一言言うだけだと口を開くが、声を発する前に大黒の形の良い眉が顰められた。
「あ? 何か用か?」
訝しげな声に喉まで出掛かっていた言葉を飲み込んでしまった。
視線を落とすと、ゴテゴテとした飾りの付いたネイルが施された細い指が所有権を主張するように大黒の腕に巻き付いているのが目に入り顔が引き攣った。
――女性と付き合っている。
その事実に打ちのめされていると更なる衝撃に見舞われた。
「誰? つーかどっかで会ったっけ?」
あまりのショックに瞬きするのも忘れ、足元を見詰めた。
――気付いてもらえなかった……。
愕然とし、震える声で搾り出すように「間違えました」と言い捨て、その場を去った。
全力疾走し、たまたま目に入った寂れた神社へ入ると境内の裏でへたり込み、自問する。
中学の頃より十センチ以上背が伸びたからか。
無造作に伸ばしたままの髪型の所為か。
食欲不振から痩せた所為か。
いや、そうではない。
背が伸びた自分より大黒は更に大きくなっていた。
中学時代はまだ薄かった身体は厚みを増し、男として完成されていた。
変わったのはお互い様だ。
なのに自分だけが気付いたのは僕にとって彼が特別だったからだ。
彼は……。
大黒にとって僕は特別ではなかった。
その他大勢の一人にか過ぎず、だからこそ気付かれなかった。
三年間心の拠り所としていた相手に忘れられていた事実があまりに滑稽で、おかしかった。
「ははっ…はっ…」
今までずっと自分を騙していたが、もう無理だった。
関係は一方だけでは結べはしないのだ。
繋がりは遠の昔に切れていた。
いい加減それを認めなくてはいけない。
今まで色々な物を諦めてきた。
だから今回も諦める。ただそれだけだと自分に言い聞かせていると、涙が零れた。
唯一の存在をどうしたら諦められるのか分からず、境内の柱に頭を打ち付ける。
こつんこつんと……。
止め処なく流れ続ける涙をそのままに、頭を打ち付け続けた。
どれくらいそうしていたか、日が傾き、空は夕闇に染まっていた。
心にぽっかりと空いた穴から何か大切な物が零れているのか、立ち上がれる気がしなかった。
指一本動かすのが億劫で境内の柱に寄りかかり、ぼんやりと風に揺られる草木を見ていた。
歩きたくない……。
帰りたくない……。
何時だったか、鷲山がおぶって寮まで帰ってくれたのを思い出す。
あの時の様におぶって寮に帰ってくれたらいいのに……。
そんな事を願う自分に溜息が漏れる。
自分は何時からこんなにも甘ったれになってしまったのかと……。
活を入れるために下唇をきつく噛み締め、膝に爪を立てた。
大丈夫だ。
大黒と出会うまでは一人でやってこれたのだから。
何も問題はない。
そう自分に言い聞かせ、鉛のように重い身体で立ち上がる。
一瞬、鷲山の顔が頭に過ぎった。
彼のくだらない話を聞きたい衝動に駆られるが、今彼の声を聞いたら自分は本当に立ち上がれなくなるような気がして、頭 を振って甘えを振り払った。
人に頼れば……。
縋れば……。
弱くなる。
これ以上弱くなる訳には行かないと、鷲山の名刺は忘れる事にした。
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