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ネコの視点-5-
大黒への気持ちに気付いてから、高校時代には年に数回だった自慰を三日と空けずに行っている。
行為の最中は興奮し高揚しているが、射精し我に返ると虚しいだけだった。
こんな不毛な行為は止めるべきだと思いながらも、空想上の大黒に縋り、自分を慰める日々が続いた。
何時までもこのままではいけないと、ネットでゲイに関する情報を集めた。
今直ぐには無理でも大黒を忘れようと、ネット通販で購入したゲイ雑誌のモデルで想像し自慰するが、結局最後には大黒を思い出してしまう。
自覚してから散々妄想した大黒との如何わしい行為を上書きしようとしても、後から後から浮かび上がり、お仕置きして下さいと大黒に縋り付いていた。
自分に大黒以上の存在が居ないのがいけないのだと、ネットで同士を探し、バーチャルでの友達を作った。
ゲイ専用のバーをネットで調べては手当たり次第に足を運んだ。
雰囲気が良い店もあれば悪い店もある。
客質が良い店や悪い店も。
幾つかの店に何度か通い安心出来る店かどうかを吟味してから人に声をかける事にしたが、自分から他人に声をかけた事がない為どう切り出していいか分からず、最初の数回は黙って手の中のグラスを見詰めていた。
一人静かに飲むのを好む客とは違ったものを感じたのか、バーテンが気を利かせて声をかけてくれ「忘れたい人がいる」と相談すると「新しい恋をしたらいかがです」と常連の人間を何人か紹介してくれた。
温和で身形の確りした紳士。
砕けた服装に人好きする笑顔の好青年。
カッチリとスーツを着た真面目そうなサラリーマン。
派手なスーツに身を包み、夜の街が似合いそうな危ない空気を纏った男。
何度か話をしてみたけれど、誰に対してもその気にはなれなかった。
イジメを受け、精神的に追い詰められていた時に助けの手を差し伸べてくれたヒーローを上回る存在を如何すれば作れるのかが分からず、恋に破れた同士を見つけては、傷を舐め合うように酒を酌み交わす夜が増えていった。
チャット友達と失恋話を肴に酒を酌み交わす顔見知りが出来た他は何も変わらない日々だったが、悩みを打ち明けられる人間がいるだけで大分救われた。
そして大学二年目の冬休みに入ろうとした日だった。
何時も通りに大学から真っ直ぐマンションに帰ると、室内に母がいた。
マンション契約者である母は管理人に言って鍵を開けさせたのだろう。
僕が大学へ行っている間に家捜ししたのか、隠していたゲイ雑誌がテーブルの上に積み上げられていた。
怒りとも侮蔑ともつかない表情で睨み付ける母に弁解するが、携帯のGPSアプリ機能で入手したゲイバーなどに行った記録を突き付けられ声を失った。
「親不孝者!」
「出来損ない!」
「恥さらし!」
テーブルに積み上げられた雑誌と共に投げつけられる非難の言葉。
信じていた自由が偽りだった事。
支えを失ったままの心は脆くガラガラと崩れていく。
口答えもせずに今日まで従ってきたのに……。
指定された大学にも入ったのに……。
悪い事などしていないのに……。
それなのに駄目なのかと。
積み上げてきた努力は無に返され、糾弾の言葉が投げつけられる度に酸をかけられたかのように心が腐食していく。
お腹を痛めて産んだのに。同じように育てて何故お前だけがこんな風に育ってしまったのかと嘆く母の言葉をそれでも黙って聞いていた。
だが……。
「お前なんか私の子じゃない」
何もかも否定する言葉に僕はポケットの中の携帯電話を投げ落とすとそのままそれを踏みつけた。
「だったら、二度と僕を探すな!」
それだけ叫ぶと、僕はマンションを飛び出した。
当ても無く走り、気付けば一つ向こうの駅まで来ていた。
痛む脇腹を押さえながらトボトボと歩いているとコンビニの脇に設置された公衆電話が目に入り、急いで駆け寄った。
鞄から財布を取り出し、受話器を持ち上げると十円玉を何枚か投下した。
だが、ボタンに指を伸ばしたところで、気付く。
もう自分には掛ける相手がいない事に。
受話器を置き、返却口に硬質な音が響くのを聞きながらその場にへたり込む。
現実世界に縋れる存在など、僕には居ないのだと愕然とした。
コンビニの前で座り込み放心していたが、このまま座り込んでいる訳にもいかないと立ち上がり、歩き出す。
行き付けのバーに行って顔見知りの人間に相談してみようかも思ったが、今後家からの支援が経たれる事を考えると一杯千円はする酒を飲む事に抵抗を覚え、諦めた。
ネット友達に相談しようとネットカフェに入り、メールを送信する。
返事を待つ間、ただ只管に「誰でもいいから助けてくれ」と祈り続けた。
ジリジリと焦れながら待っていると数分後一人から返信が返ってきた。
返信者はフジさんだった。
『大変だったね』と慰めの言葉を読んで涙が出そうになった。
会って話をしないかとの言葉に不安が無い訳ではなかったが、何時も親身になって相談を聞いてくれていたフジさんなら大丈夫だろうと、待ち合わせの場所とお互いの目印を決めた。
電車を乗り継ぎ、指定されたカフェに入店すると窓側の席に目印の手帳型カバーを付けた携帯電話が置かれているのが目に入った。
同じ位の年だと勝手に想像していたが、十歳は年上に見える温和そうな男性に名前を確認する。
「フジさんですか?」
「リアルでははじめまして」
優しい微笑みだった。
勧められ席に着き、ホットコーヒーを注文すると簡単な挨拶をした。
直ぐに運ばれてきたコーヒーに口付けるとフジさんに「大変だったね」と言葉をかけられ喉につっかえていたものが外れ、押さえきれない感情が言葉となって溢れ出た。
息の詰まる管理と努力の生活への愚痴。
優秀な兄と比較し僕を否定し続ける母への怒り。
ゲイだとバレた事への恐れ。
今後どうすればいいのか分からない混乱。
それらを一通り話し終わる頃には三倍目のコーヒーが空になっていた。
流石にお腹が一杯になった僕はトイレに立ち、戻ると新しいホットコーヒーがテーブルにあった。
気を使って注文してくれたものをそのままにするのも申し訳なく、それを飲みながら今後についての事を相談に乗ってもらった。
「お腹空いたね。近くに美味しい店あるから一緒にどうかな?」
フジさんに言われ、店内に設置された時計を見れば入店から二時間以上経っている事に気付いた。
持ち合わせがないと食事は断ったが、奢るからと半ば強引にカフェから連れ出された。
悩み相談を受けてもらったのもあるが、何よりも僕自身が誰かと一緒に居たかった。
他人と食事を取るのは鷲山以来だと思いながら夜道を歩いていると軽い眩暈を覚えた。
今日は色々あって疲れているのだろう。
食事をして休めば良くなる筈だと眩暈を無視して歩き続けると、大型の公園に差し掛かった。
その公園はゲイ雑誌にも取り上げられている有名な出会いの場で、名前だけは知っていた。
入り口は電灯で照らされてはいるが薄暗く、歩道以外の場所は樹木が生えている事もあって完全な暗闇だ。
不気味な雰囲気に顔を顰めているとフジさんは入り口前で足を止めた。
「ここを突っ切っていくと近道何だ」
さり気無く背中に回された腕に妙な緊張を覚え、身を引く。
「大丈夫。二人で居れば誰も声を掛けてこないから」
ここがどういうところなのか分かっているのだ。
自分を取り巻く空気がざわつくのを感じ、後ずさろうとするが、足がもつれ転びそうになる。
「大丈夫?」
身体を支えるフジさんの腕から逃れようとするが身体が思うように動かない。
何とかフジさんの腕から逃れるが、途端に貧血を起こしたようにその場にしゃがみ込む。
「大丈夫?」
安否を伺う声に笑いが含まれているのを聞いて鳥肌が立つ。
悪意の篭った声に何かされた事は確実だった。
顔を上げ見れば、気持ち悪い笑みを浮かべたフジが僕を見下ろすようにして立っていた。
「何を……」
問うとフジは僕の腕を掴み自分の肩に回すと空いている手を腰に回した。
「安心しなって。飲ませたのはただの睡眠導入剤だから。ハルシオンて聞いた事あるだろ? アレだよ」
「離せ……」
手を振り払おうとするが、バランスを崩し倒れそうになり、それをフジの腕が支える。
「いやぁ~。実際会ってみて好みじゃなかったらお茶して終わりのつもりだったんだけど、予想以上にあんた美人でさ。サンタさん有難うって感じ?」
「ふざけるな!」
「はいはい。ほら、確り歩いて。もう少し奥まで行ったらゲイエリアだ。今日はクリスマスだから結構な人数集まっているはずだからさ。人がヤっているのを見ながらすると凄く興奮するよ」
冗談ではないと必死に藻掻き、フジの腕から逃れた拍子に地面に倒れる。
その拍子に眼鏡が何処かへ吹き飛んだが、そんな事にかまってなどいられない。
思い通りに動かない手足を動かし、よろめきながら逃げる。
「なになに。鬼ごっこ?」
酩酊状態の人間など容易く捕まえられるからか、フジは慌てる事無くゆっくりと一歩一歩近付いて来る。
「早く逃げないと追いついちゃうよ~」
からかうような声に苛立ちを覚え歯軋りしながら少しでも離れようと足を動かすが、距離は開くどころか縮まるばかりだ。
助けを呼ぼうにも公園内で大声を出しても誰にも届かないだろう。
届いたところで助けてもらえるとは限らない。
最悪、フジに加勢するかもしれない。
駄目だ!
自分で何とかするしかないのだと、足を動かし続ける。
だが、残酷な捕食者の手は容赦なく僕の腕を掴んだ。
「つ~かまえた」
ずるずると茂みに引き摺り込まれる。
「可愛いケツ振り振り逃げているの見てたら我慢出来なくなっちゃった。もうここでいいや」
突き飛ばされるようにして地面に倒されると、僕の上にフジが跨った。
公園の電灯で逆光となり暗く陰った顔に愕然とする。
これは誰だ?
さっきまで優しい笑みを浮かべ、親身になって話を聞いてくれていた人間と同じ人間なのか?
これまでずっとネットで悩みを受け止めてくれていたのに……。
全部嘘だったのかと、涙が込み上げてくる。
傷付くな!
さっきまで一緒に笑っていた相手が手の平返すなんて当たり前の事だろう。
中学の三年間、人間の悪意に晒され続けたのだから知っているだろう。
泣くな!
泣けば相手を喜ばせるだけだ。
助けを求めても無駄だ。
自分で何とかするしかないんだ!
僕は地面に手を這わせ、手の平に収まる程の石を掴み、片膝立ちしているフジの脛を思いっきり殴りつけた。
痛みで身を丸めたところへ側頭部目掛け、素手で殴りつける。
大きく身体を傾けたフジを蹴倒し、逃げる。
よろめく身体を必死に動かし、背後の怒鳴り声から遠ざかる。
動け動けと祈るように手足に命令する。
だが必死に稼いだ距離をフジは難なく詰め、僕のコートを掴み引き倒した。
――助けて……。
無駄だ誰も助けになど来ない。
伸し掛かるフジを退けようと闇雲に腕を振り回す。
それが目に当たり、怯んだ隙に地を這って逃げる。
――助けて……。
助けになど来ない。僕にはもう誰も居ないのだから。
――助けて……。
――助けて……。助けて……。
――助けて……。助けて……。助けて……。
襟首を掴まれ恐怖にすくみ上がる。
――大黒! 大黒! 大黒!
――助けてくれ!!
殴られる衝撃に備えて歯を食い縛るが衝撃は訪れず、それどころか背面に伸し掛かっていた重みが無くなった。
頭上でフジと誰かか言い争っている。
何が起こっているのか分からず身を縮めていると走り去る音が聞こえ、そして力強い腕が僕を抱き起こした。
もう駄目だとぎゅっと目を瞑る。
「おい。大丈夫か?」
フジとは違う声に顔を上げると、助けを求めていた相手の顔があった。
「…おお……ぐろ?」
こんな都合よく現れる訳が無い。
強く願った所為か、薬の所為か、幻覚を見ているのだ。
分かってはいるが、大黒に助けてられたのだと思った瞬間。
張り詰めていた緊張が解け、僕はその場に吐き崩れた。
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