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ネコの視点-6-

 重い瞼を開くと見覚えのないピンク色の天井が見えた。  自分が何処にいるのか分からず、そっと身を起こすと白いガウンを身に纏った男が近付いて来た。  眼鏡を失い視界が不明瞭な僕は、相手の正体が分からず身を強張らせる。  男との距離が縮まるにつれ、ぼやけていた輪郭がクリアーになり、不明瞭だった顔がハッキリとする。 「大黒恭路…か?」  雰囲気が似ているだけの別人かもしれないと確認をすると男は驚いたような顔で僕を見詰め、そしてバツが悪そうな表情をになった。 「前に何処かで会ったっけ?」  大黒の薄情な一言に胸が痛み、あてこする様に零す。 「君のような男がいちいち財布の事など覚えていなくて当然か」  財布と言う単語で思い出すと思ったが、それでも大黒は僕と言う存在を思い出さなかった。  何処までも惨めな自分を笑い、僕と言う存在をきれいに忘れた大黒を腹立たしく感じ、怒りも露に名前を名乗った。 「志波隼人だ!」 「志波って、中学で一緒だったガリ勉クソ眼鏡か!?」  酷い覚えられ方に睨みつけるが、その後続けられた「キレイになったな」と言う言葉に思わず顔が綻びそうになる。  社交辞令をまともに受け取っているなどと知られたくない僕は、表情筋が緩まないように必死に力を込めると、それに連動して可愛げのない事を言ってしまう。 「変な事を言うな」 「悪い」 「別に謝ってくれなくて結構だ」  刺々しい態度に気まずさを覚えそっぽを向くと、クスリと大黒に笑われた。  バカにされたように感じ、眉間の皺が深くなり更に顔を背けると、大黒から溜息が聞こえた。 「で、何でハッテン場で男に襲われる事になってんだよ」  核心を突く質問に硬直し、上手い言い訳が浮かばず答えられずにいると「お前、ゲイなんだ」と断定され、背中に冷たい物が走った。  気持ち悪いと……。  理解できないと……。  拒絶されるだろうかと大黒を盗み見るが、表情に嫌悪の色は見えない。  考えてみればクリスマスに一人でハッテン場をうろついていたのだ。  もしかしたら彼もこちら側の人間かもしれない。  いや、以前女性と付き合っていたようだから男女どちらも愛せるバイセクシャルか、もしくはただの興味本位か……。  どちらにせよ彼が一人身である事は確かだろう。  確信と言うよりもそうであってくれと祈るように「きみだってそうだろう?」と訊くが、軽い口調で「いや、俺は普通に女が好きだけど?」そう返された。  母に罵倒された後ゆえに『普通に』という言葉が刃となって突き刺さる。 「どうせ、僕は異常だよ。男が好きな変態だよ。悪かったな」  俯き、卑屈に呟いていると、大黒は必死にフォローを入れるが、信じられない。  言葉では何とでも言える。  本当に気持ち悪いと思っていないならキスしてみせろと叫べば大黒は顔を歪め押し黙った。  その姿に男同士と言うどうあっても乗り越えられない壁があるのだと思い知る。 「どうせ僕はおかしいんだ」  膝を抱え俯きながら愚痴っていると頭上から声がかけられた。 「おい」 「何だ。言葉だけの慰めなんか要らないぞ」  膝に付けていた顔を持ち上げると、大黒が覆いかぶさってきた。  何かが唇にあたり、思わず身を引いてしまう。  優しく唇を食まれキスをされているのだと理解すると、全身に震えが走った。  キスだ。  大黒にキスされている!?  興奮と感動から血が沸騰し、頭がクラクラする。  舌先で唇を突っつき口を開けろと催促されるが、何時間か前に吐いた事を思い出し、頑なに拒否していると両手で固定されていた頭が解放された。  何故キスしてくれたのだろうか?  同情だろうか?  分からない。  ただ、どうせするならちゃんとして欲しかった。  人生で最初で最後の事だろうから。  今ならまだやり直しがきくだろうかと、仕切り直しを要求すると大黒の返事を聞かずに洗面所に駆け込んだ。  バクバクと逸る心臓を押さえながら鏡に映る自分を見詰め、指先でそっと唇をなぞると大黒の唇の感触を思い出し顔が緩む。  あまり待たせてはいけないと大慌てで歯を磨き、、大黒の待つベッドへと戻るが、興奮状態の僕に比べ平常そのものの大黒の姿に不安を覚える。 「もしかして、もう出来ないのか?」 「いや、出来るけど」 「なら……」 「お前初めてなんだろ? こんなんでいいのか。相手が俺だなんてバツゲームみたいじゃねーか」 「い…いずれ失うものだ。既に半分失くしたようなものだし。今更だし。こうなった以上、相手が君でも僕は構わないよ」 「まぁ、お前がいいなら俺は何でもいいんだがな」  顎に手を添えられ、これからキスされるのだと思うと顔が引き攣った。  ずっと夢見ていた事が叶う。  いや、先程半分は既に叶った。更に半分が叶うのだと胸が張り裂けそうなほど高鳴った。  現実感の薄い展開にどんな顔をしていいのか分からない。 「リラックスしろよ。あと睨むな」 「仕方ないだろ。襲われた時に眼鏡を失くしたんだ。焦点を合わせるのにどうしても目を細めてしまうんだ」 「じゃあ、無理に見ようとするな。目を閉じろ」  大黒の命令口調に背中がぞわぞわと粟立つ。 「口を開けろ」  ぎこちなく口を開けるとすかさず舌が差し込まれた。  驚いた僕は顔を引こうとするが、確りと大黒に拘束され動けなかった。  絡め取られた舌がきつく吸われ、頭の芯が痺れる。  深く激しい口付けに息が上手く吸えず、苦しさから大黒の二の腕を叩くが、キスも腕の力も緩めては貰えない。  貪るようなキスに口の端から唾液が零れてしまう。  苦しく容赦のないキスに、僕は眩暈がするほど嬉しかった。  漸く解放され大黒を見れば、欲情に煽られた僕とは違い平静そのものだった。  僕とのキスに何も感じてはいないのだと悲しかった。  熱を持った身体を沈めにトイレに篭り処理を終えて出ると、直ぐに大黒の説教が始まった。  熱を失い萎んだ気持ちがより一層しぼみ、もやもやとした。  僕の事などどうでもいいくせにと腐った気持ちで説教を聞いていたが。 「今日は偶々俺が居合わせたから良かったが、そうじゃなかったからクソみたいな目に遭わされていたんだからな」  その一言に、フジの悪意の篭った声や笑みを思い出し、今更ながら血の気が引いた。  震える手に気付かれない様にきつく拳を握る。 「相談くらいなら幾らでも乗ってやるから、変な奴に会おうとするな」  大黒の優しい言葉に目頭が熱くなる。 「話す相手がいるだけでも全然違うぞ」  縋ってはいけない。  弱みを見せてはいけないと下唇を噛み締め堪えるが、自分が思っている以上に人に襲われた衝撃は大きく、心が揺れる。  今にも噴出しそうになる感情を抑えながら、財布から金を取り出しテーブルに置く。 「これは助けてもらった対価だ」  適当な理由を付け、千円札を何枚も重ねていき。 「これは…慰めの対価だ」  震える声で告げた。 「キスが出来たんだ。抱きしめるくらい出来るだろう?」  金さえ払えば対等な立場だ。  みっともない姿を見せたとしても問題はないと自分に言い訳する。 「早くしろ!」  一瞬、大黒の顔に苛立ちが見え、胃が引き攣った。  怒らせてしまっただろうかと狼狽《うろた》えながら必死に涙を堪えていると、大黒に抱き寄せられ、我慢が利かなくなった。  頭を撫でられながら大黒の胸でボロボロと泣き、何時の間にか僕は眠ってしまった。  朝を迎え、目を覚ますと帰り仕度をしている大黒の姿に夢の時間が終わるのだと寂しさを感じだ。  陰鬱な気持ちで俯いていると大黒はベッドサイドサイドの引き出しからメモ帳とペンを取り出し、電話番号とメールアドレス。そして住所を書いてくれた。 「何かあったら何時でも連絡して来い。千円で用心棒やってやるから」  とうの昔に切れた縁を再び結んでくれるのだと感動に手が震える。 「大黒!」  振り返る大黒に必死に確認する。 「電話するぞ!」 「おう」 「後から迷惑などと言うなよ!」 「言わねーよ。じゃあな」  手を振りながらドアの向こうに消えて行く背中を涙で歪む視界で見送った。  手の中に残る連絡先の書かれた紙に顔が綻ぶ。  紙を眼前に掲げたままベッドに仰向けに寝転んだ。  色々あったがまた大黒との縁が結ばれた。  昨日の様子から恋人になるのは難しいだろう。  だが、金さえ払えば抱きしめてキスもしてくれるのだ。  可能性が無い訳ではない。  ……多分。きっと。  兎に角まずは、友達になろう。全てはそこからだ。  だが、友達というのはどうすればなれるのだろうか?  なって下さいと申し込むべきなのか?  いや、それよりも既成事実を作った方がいいのかも知れない。  呼び捨てよりも『大黒くん』とくん付けの方が友達っぽいだろうか?  今度あったら思い切って呼んでみようかと、約束もない次の事を考えてベッドの上を右へ左へと転がる。  何時まで見ていても見飽きない連絡先を見詰め続けていたが、ホテルのチェックアウトの時間が近付き、メモ用紙をキレイにたたむとズボンのポケットへとそっとしまう。  急ぎ洗面所に向かい顔を洗うと、洗面台に置かれたタオルを持ち上げた。すると下から小さな黒い箱が現れた。  ホテルのアメニティグッズにしては箱が重厚だ。  昨晩は気付けなかったその箱を手に取り、箱とリボンの間に挟まれていたカードの中を確認し、愕然とする。 『いつもありがとう』  メッセージと共に書かれていた女性の名前にその場にへたり込んだ。  クリスマスに一人で居たからといって恋人が居ないとは限らない。  冷静に考えれば分かる事なのに……。  リボンを外しそっと箱を開けば、中には指輪が光り輝いていた。  恋愛に疎い僕でもクリスマスに指輪を贈る意味くらい想像が付く。  大黒はプロポーズしに行く途中だったのだ。だというのに僕と関わってしまった所為で恋人の元へ行く事が出来なかった。  好きな人の幸せを壊してしまったかも知れないと罪悪感に身体が震え、自分が彼の心に入り込む余地など無い事実に胸が痛んだ。  何時だったか大黒と女性が腕を組んで歩いていた姿が脳裏に浮かび、絶望から嗚咽が零れる。  大黒は別の誰かのもの。  決して僕のものにはならない。  キスも抱擁も金を支払ったからで、好意からではない。  彼は女性が好きで、僕は男だ。  男という以前に彼にとって直ぐに忘れられる程度の存在だ。  何を夢見ていたのだろう。  何故勘違いをしたのだろう。  初めから分かっていた事なのに……。  大切にしまったメモ用紙をポケットから取り出し、ほんの数分前まで大切な宝物だったそれを握りつぶした。  バカな夢を終わらせる為に……。

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