2 / 6

第2話

真倉(まくら)さん。リンです」 『待ってたよ! どうぞ』  着いたマンションのエントランスからインターホンを押せば、スピーカーを通して弾んだ声をかけられて思わず口元が緩む。真倉さんには悪いけれど、切実な声がちょっと面白い。  普段俺は『shoushou』という名のペットサロンで働いていて、出張でトリミングはしない。  ただこの件だけは別。  二年ほど前、店長の根元さんに紹介されて……というか俺を紹介されて訪れたのがここだった。  この家の主は真倉シンイチロウさんといって、まだ若いのに有名な会社の重役らしく、モデルルームのような大きくスタイリッシュな部屋に一人で暮らしている。  例えばそこで飼っている大きな犬が人見知りをするとか、車が嫌いだからという理由で呼ばれたんだと初めは思っていた。真倉さん本人に出会うまでは。 「おはようござ……わあ、今日も爆発してますね」 「これだから梅雨は嫌いなんだ。悪いね、煩わせて」  中から出てきた真っ黒のもふもふ、が、真倉さん。  すでに準備済みで上半身が裸だから、余計もふもふ感が強い。 「俺も雨は嫌いなんで気持ちはわかります」  ひどいくせっ毛があちこちに跳ねている背中を押して部屋の中に入ると、慣れたものですでに色々な用意が整っていた。シートもイスも鏡も揃えられている。  そんななかでしょんぼりもふもふと立っている真倉さんは、見た通り黒い毛並みの獣人だ。きりりとした豹というか、すらりとした野獣というか。  そう、獣人。  賢くて体も強くて、その姿は直立した獣に似ている、人より優れた種。人であり獣であり、同時にどちらでもないもの。  俺も存在は知っていたし優秀だからこそ上の方には結構いるらしいということは聞いていたけれど、実際会うのは真倉さんが初めてだった。  そしてそれが良かったのだろう。優秀がゆえに威圧的な人が多いという話だったけれど、真倉さんは最初から物腰が柔らかく、恐がることもなく馴染むことができたから。なにより黒に映えるトパーズ色の瞳がとても綺麗で、恐ろしさを感じるより先にそれに魅入られた。光の入り方で煌めいて微妙に色を変えるそれは、本当に宝石のようでとても美しいんだ。 「じゃあ先に少しブラッシングしますね」 「頼む」  広いリビングの真ん中に敷かれたシートの上のスツールに座る真倉さんをくしで丁寧に梳かす。  獣であり人である真倉さんの悩みはこのくせっ毛だ。しかも雨が降る日はそれが余計ひどくなり、うねってあちこちに跳ね体全体の嵩が少し増すほど。  それに困り果てた真倉さんが、根元さん経由で俺に辿り着いたのが約二年前。俺の背が高いせいもあるけれど、小柄な彼女との身長差は20センチ以上あり、下手したら中学生くらいに間違われそうな少女然とした根元さんは、だけどかなりのやり手で人脈も広い。そして事あるごとに俺の腕を自慢してくれるものだから、それに真倉さんが引っかかった。  ただ、本人としては俺を呼ぶまでかなり葛藤があったらしい。  トリマー。犬や猫の美容師。獣であっても人である真倉さんが自分の体をトリマーに任せるのはやはりプライドに障る行為だっただろう。なんでも何度か店までこっそり偵察に来たらしい。  俺は気づかなかったけれどそこでなにかしらの合格点をもらい、この依頼を持ち込まれた。曰く、このくせっ毛をどうにかしてくれ、と。 「言われた通り乾かしているつもりなんだけどね」 「全身は難しいですよね」  もちろん俺だって獣人のトリミングは初めてだったけれど、大きなもふもふの体をしょんぼり丸めて梅雨を呪う真倉さんにほだされて力になりたいと思ってしまった。それから試行錯誤しつつなんとか普段通りの手順に加えて本人の意見を聞き入れながらやりとげた結果、真倉さんにはひどく感動され「どうか毎朝僕の体を梳かしてくれ」とプロポーズみたいなスカウトを受けるくらいの成果が出てくれた。  毛玉のような姿から一転、すっきりとしたスーツの似合う格好良さを引き出せたことは満足したし、実際真倉さんの凛々しい変身っぷりには感動したからその喜びは理解できたけど、さすがに冷静になってくれと丁寧に断った。  それでも何度も「その腕に感服した。付き合ってくれ」とまるで告白するように依頼されて、梅雨時だけじゃなく湿気がひどい時も出張でのトリミングを受け付けることとなったんだ。  今回もまたブラッシングで絡まった毛を治め、シャワーの後に丁寧に乾かし、軽く整えるように切りつつ仕上げたらうっとりしたようにため息をつかれてしまった。 「本当に、僕の専属になってくれる気はない?」  そしていつもの口説き文句。  他にもお客さんがいますので、とこちらもいつも通り断ると、真倉さんはすっきりした肩をすくめた。こういう仕草をすると、妙に似合っていてオシャレだ。

ともだちにシェアしよう!