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第3話
「それでは少し賄賂を渡そう」
その上でテーブルの上に置かれていた小さな箱を俺に手渡してくる。ラッピングされたそれには、俺でもわかるブランドの名前が。
真倉さんに促されて開けると、手のひらに収まるくらいの卵のような丸いパッケージが現れた。フタらしきところを開ければ上品な甘い香りが漂う。
「ハンドクリームですか?」
「手の荒れに良く効くそうだ。これからも、(僕のものにならない)せっかくの腕を存分に振るってもらいたいからね」
「聞こえてますよ?」
「おや、失敬」
「けど、これは嬉しいです。ありがとうございます」
少しだけ出して手の甲に乗せれば馴染みよくしっとりと伸びて、ほんのりと優しい甘さが香る。これは塗るだけでリラックスできそうだ。
人間相手の美容師と同じようにシャンプーを繰り返す職業だから、手の荒れはいくらケアしても逃れようのないもの。だからこのプレゼントは素直に嬉しい。
だから頭を下げてお礼を言えば、上げた顔をそっと両手で包まれた。肉球はないけれど、毛皮に包まれた手はふんわりと優しい。
「それにしても、また隈が濃くなったんじゃないか」
「梅雨の時期はこんなものですよ」
俺の不眠症のことは話してある。もちろん抱き枕の話はナイショだけど、それ以外は隠すことではないから軽く話した。雨の日に眠れないだけで本格的なものではないから気にしないで、と言っても親切な真倉さんはいつも心配してくれる。
お香やお茶なんかのリラックスできるいい香りのものをよくプレゼントしてくれるのもそれが原因だ。本当に優しい人だと思う。
「一度環境を変えてみるというのはどうだろう」
そしてその優しい人は、俺の不眠をまるで自分のことのように悩んでくれて、そんなことを真剣に提案してくれた。
違う環境で寝るのは頻繁に試しているし、そのどれでも効果がなかった。疲れ果てるまでセックスして、気絶するようにほんの少し眠る。その繰り返し。だけどその説明は真倉さん相手には難しい。
「抱きマクラというのを試してみるのは?」
「……!?」
そんなことを考えていたからか、真倉さんの口から滑り出たその言葉に肩が跳ねるほどの過剰反応をしてしまった。
もちろん真倉さんの言っているのは俺の『抱き枕』のことじゃない。
むしろ。
「あ、抱き真倉……?」
「……いや、今のは忘れてくれ。恥ずかしいことを言った」
まさかのダジャレ。
顔色を窺うことはできなかったけれど、どうやら照れているらしくトパーズ色の瞳が泳いでいる。そういう冗談を言う人だったのか。いや、言わないからこそのこの反応か。
「その、自分で言うのはなんだが、寝心地はいいと思うんだ」
「一緒に寝るってことですか?」
「……僕はベッドに少しばかりこだわっていてね。睡眠をするにはかなりいい状況だと思うけれど」
どうやら本当に一緒に寝るということらしい。むしろ文字通りベッドに誘われた。
自分の提案が恥ずかしいのか微妙に俺から目を逸らせたまま両手を広げる真倉さんは、確かに全身ふわふわで抱きついたら大層気持ちがいいだろう。
それに包まれて眠る? なにもしないで? 男二人が、性的な意味もなく抱き合ってただ眠るって? 本当に抱き枕として? そんな寝方があるのか。
「いや、そんなに考え込まなくても普通に断ってくれていいから。悪かったよ、変なことを言って。なにか力になりたかっただけなんだ」
あまりの予想外な提案に真倉さんを凝視したまま考え込んでしまっていたらしく、慌てて言葉を重ねられる。黙って立っていれば凛々しい真倉さんだけど、意外とアドリブは弱いのかもしれない。頭の上の耳があちこちに動いていたあげくにぺったりと垂れているのが少し可愛い。
「えっと、じゃあせっかくなんで一度だけ甘えてもいいですか」
別にほだされたというわけじゃないけれど。
せっかくの申し出だし、今夜の『抱き枕』のあてがあったわけじゃないから、軽い気持ちで頷いた。その途端ぴんっと立った耳がまた可愛いくて、だけど口にはしなかった。さすがに大の男に「可愛い」なんて言い方は失礼かと思ったから。
それでも目に見えてご機嫌になった真倉さんに、思わず唇がほころんだ。
「じゃあ夜にまた」
大体の時間を決めて、後は仕事が終わったら連絡しますと約束して真倉さんの家から仕事に向かった。
まだ雨は降っていたけれど、その憂鬱が少しだけ晴れた気がした。
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