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第9話 先生の恋人と、先生の生徒

 夏休み中の部活って好き。  なんだか特別な気がする。先輩たち、とくに高等の先輩たちは夏の終わりにある弓道の大会を最後に引退をするから気合が入っていたり、進路のことで頭を抱えてる二年生もいたりで大変そうだけれど。ある意味、高等科への進路がすでに確定しているからか、中等の皆は穏やかで朗らかで、楽しい。  それに先生も少し砕けてる気がするんだよね。夏休みの間の部活の時って。Tシャツだしさ。普段はシャツにネクタイな直江先生のTシャツ姿とかも、差し入れって持ってきてくれるアイスも、そのアイスが一瞬で溶けちゃうような暑さも、なんだか特別な気がして。 「はぁ……」  けど、お盆の間は部活一切ないから、つまらない。  とってもつまらない。  しかも、うちの親はお盆からずらしておじいちゃんのうちに挨拶に行くから、その次の週も部活に出られない。もうもう、とっても。 「……つまんない」  そう思わず呟くくらいにはつまらなくて。  別に行きたいとこがあるわけでもなく、お盆時期だからどこもかしこも混んでるだろうし。退屈しのぎに駅まで来てブラブラしてたんだけど、そう楽しいこともなく。  シュウ君、暇してないかな。暇にしてたら誘って……と思い連絡を取ろうと思ったのだけれど、スマホを動かしていた手を止めた。 「宗司」  そう、名前を呼んだ声が聞こえたから。  宗司、って、直江先生の下の名前。だから、どこかにいるかも、オフの日の先生が見られるのかも。なんて思ったけれど、それはとてもとってもレアなことで、ありえないってわかってる。ただ同じ名前の人がいたんだ。きっと。でもやっぱり、どこかで淡い希望を持って周りを見渡した。いるのかも。どこかに先生が――。 「宗司、ちょっと待って」  先生がいるのかもって思った。 「映画、遅れるぞ」 「でもぉ、あそこのお店、可愛いバッグがあったのにぃ」  先生がいたけど。 「ほら、映画、お前が観たがってたやつ、だろ」 「じゃあ、見た後もう一回ここに寄る」 「……わかったよ」  知らない女の人もいた。  知らない女の人はとてもヒールの高い靴を履いていて、細くて、真っ赤な口をしてて、長い髪がサラサラしてた。  その女の人が先生の腕にぎゅっとしがみ付いて、笑って、楽しそうに、天井から垂れ下がる映画のポスターを指差した。  それ、恋愛映画の。  俺は恋愛映画なんてちっとも興味ないから、よくは知らないけど、だって、恋ってタイトルにあるんだから恋愛映画でしょ? 女子が騒いでたイケメンモデルが女の人にキスをしようとしている場面を切り取ったポスターだもの。恋愛映画だよ。先生も嫌いな恋愛映画。  女の人といた。  綺麗な女の人。 「…………」  大人の人。 「……」  恋人、なの?  その女の人って、恋人?  ねぇ、先生。 「……」  先生ってば。その人、彼女?  腕を組んだまま、先生が嫌いなはずの恋愛映画に間に合わなくなっちゃうからって、少し急いで行ってしまう。  ねぇねぇ、先生。  ねぇ……先生。  その人と、さ。  キスしたり……するの?  ――見ちゃったんだって。うちのクラスの男子が、カラオケで二人がいてさ、個室ん中でキスしてるの! 「!」  今、想像した、よ? 先生。 「っ」  先生がキス、するの。腰を屈めて、肩に手を置いて、首を傾げて、キスをするとこを、想像したの。  俺と、キス、するとこ。 「っ!」  なんで、なんでなんでなんで。なんで、そんなの想像するの、俺。先生が俺にキスするとこを想像して。  なんで、やじゃないの。  ――なんだろ、ちょっと、ヤだな。  そう、思ったのに。女子とするのは、ヤ、って思ったのに。 「そう……じ……」  なぜか、先生の名前を口に出して呼んだんだ。そしたらね。ジュッって、口の中が濡れたの。喉奥からじわりと濡れて、零れそうで、ゴクンって飲み下すくらい。何、これ。  俺、先生とキスできるの?  キス、したいの? 「……っ、せ、んせ」  その場で動けなくなっちゃった。 「先生……」  だって、今、先生とキスするとこを想像したんだ。先生なのに、相手は直江先生なのに、ヤなんかじゃなくて、それどころか、ねぇ、先生、どうしよう。ドキドキしたよ。  ――葎。  先生に名前を呼んでもらえたら。あの声で呼んで、その唇で触れてくれたら。 「っ」  そう想像したらね、お腹が空いたみたいに、喉が渇いたみたいに、カラカラになったのに、なぜか口の中は濡れたの。そして、あのグレープフルーツみたいな少し苦い匂いを思い出したの。 「先生っ」  すごく、俺、先生のこと。 「!」  考え事を邪魔するみたいにポケットの中のスマホが振動した。 「電話? ……ぁ……シュウ、君? ……もしもし? シュウ君、どうしたの?」 『……わり、葎』 「どうか、した?」  シュウ君が電話を突然するなんてこと、滅多になくて、びっくりした。でも、その声が震えていて、泣いているようでもっとびっくりしてしまう。 『俺さ……』 「うん?」 『今、振られちった』 「ぇ……」  泣いてた。  どこなんだろう。外、にいるみたいだ。  耳を澄ましていたら、シュウ君が涙を堪えて喉を詰まらせる音が聞こえた。 「あのね……」 『……』  振られ、ちゃったんだ。シュウ君。悲しいよね。自分は好きなのに、相手は自分のこと好きじゃないなんてさ。よくあることなのにさ。そんなの両想いのほうが珍しいことなのに。そうわかっていても、なんでこんなに悲しいんだろうね。  今ならわかるんだ。  好きになるって良くわかってなかったから、片想いも両想いも、告白も、なんもわかってなかったけれど。  今ならわかる。 「俺も好きな人がいた、んだ、けど、さ」  好き、ってどんなことなのかわかる。  先生とさ、キスするのを想像したの。大きなあの手で肩を掴まれてさ、背の届かない俺のために屈んでくれて、首を傾げてキスをしてくれる。グレープフルーツの香りがたくさんして、すごくドキドキしながら、俺も背伸びしてキスをするんだ。  けどさ――。 「振られちゃった」  けど、先生と本当にキスをするのは俺じゃなくて、あの横にいた女の人。  先生を宗司って呼んだりもしない。俺は生徒で、先生は先生だから。 「俺も振られちゃった」  キスも、しないんだ。あの女の人が先生の恋人で、俺は先生の生徒で男だから。

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