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第15話 しとしと雨

「どうした? 傘は?」 「盗まれちゃって」 「他の部員は?」 「先に帰らせました。雨、けっこう降ってきたので」  持ってきたんだ。俺はね。  だから傘を持ってない部員多かったし、先に帰らせて、弓道場の片付けは一人でやってた。 「先生は? お仕事……」 「終わったよ」 「そう、ですか」  今日は忙しそうだった。だから、途中、弓道場に顔を出したけれど、すぐに出ていってしまって。淡く、ほんのりだけれど、期待はしてみたりしたんだ。  まだ学校に先生がいるのを知ってて、雨がたくさん降ってるのをわかってて、道場の片付けを一人でするのは大変なの知ってて、それでも。 「先に帰らせたって、道場……一人で片付け大変だったろ」  それでもやったの。先生がいるから。折り畳みの傘があるからさ、この弓道場の鍵を持って、雨すごいですけど先生は傘持ってますか? って、貸してあげようと思って傘を取りに昇降口に来たんだけど、盗まれちゃってどうしようかなって。 「全然。だって中等部の頃からやってたことだし、もう慣れてるからちっとも苦じゃないってい、う……か……」  だって先生は生徒と相合傘なんてしてくれないでしょ? ムクリと今日は顔を出した「不安」が俺に意地悪をする。そうだそうだ、相合傘なんてきっとしてくれない。大人で車通勤している先生のことだもの。子ども扱いで終わっちゃう。そう、胸の隅っこから野次を飛ばされる。 「……先生?」 「……」 「あの……」  髪、ゴミついてた? 一生懸命、先生が帰ってしまわないようにって慌てて片付けたから。 「あの、何か」 「湿気……」 「しっけ?」  先生が髪を触ってくれた。なんでだかわからないけれど、俺の髪に触れてくれる。 「湿気で、うねってる」 「あ……う、ん。あの」 「昔っから変わらないな」  髪の毛一本一本に神経が通ってるみたい。 「柔らかい」  ドキドキしてたまらない。  先生にしてみたら子どもの頃から知っている、親戚の子どもみたいなものだろう俺相手に、ドキドキも何もないんだろうけど。 「そ、そう?」  何も考えずにただ撫でただけなんだろうけど。でも、俺にとってはすごくすごいことなの。こんな――。 「雨、すごいな」  小さく、まるで独り言みたいだった呟きとは違う。雨が沁み込んでそうな湿気た廊下に良く響き渡る低い声に肩がきゅっと縮こまる。 「! あ、うん。天気予報、そんなの言ってなかったのに」 「あぁ」  先生が開けっ放しになっている昇降口の外へと視線を移した。  あ、この角度、好き。  あのね、顎から首にかけての少し筋っぽいラインとか、太い首とかそういうの、カッコいい。横顔ならたくさん見てても不審者じゃないじゃん? 怪しい生徒じゃないじゃん? だから、この横顔はね、昔からしょっちゅう見てたんだ。  大好き。  でも、残念なのは、こっちを見た瞬間、視線を逸らさないといけないことなんだけど。 「車、乗ってくか?」 「え……?」  本当なら目を逸らさないといけないのに、びっくりするようなことを急に言うから、目が合っちゃった。 「車。傘、なくなったんだろ?」 「……」 「送ってやる。駐車場までは少し濡れるかもしれないが、傘、俺のに入ってけ」  静かに、心臓。  ねぇ、トクトク騒がないで。今、先生がすごいことを言ってるから。きっとこの分厚く灰色をした雲の上から神様に操られて、俺の願望そのままみたいなことを言ってくれてるから聞き逃したくない。  ちゃんと聞いて覚えて、うちに帰ったら何回でも再生したいんだから。  お願い、心臓、騒がないで。 「お前のうちの最寄り駅は知ってるから、そこからは案内な」 「う、うん」  どうしよ。先生の車乗っちゃった。どうしよ。わずかにだけれど、あのグレープフルーツの香りがする。 「って、なんで、最寄り駅知ってるの?」 「お前が初等科にいた頃、よく自己紹介してくれただろ?」 「そうだっけ? そうだったかも」 「人に覚えろって言っておいて、自分は忘れてたのか?」  だって、先生に覚えて欲しかったんだもん。俺のこと。高等科と初等科じゃさ、天と地ほども離れてるように感じられた。大人の世界って思えて、高等科の生徒が先生のところにやってくるのを見ては少しビクビクしてたんだ。大人がいっぱいって。 「……お前、よく高等科の生徒に可愛がられてたっけな」 「えー? 子どもだったから突付いて遊ばれてたんだよ」  実際、自分が高等科の生徒になったらちっとも大人じゃなくて、初等科の頃とほとんど何も変わっていないけどさ。 「可愛かったからだろ」 「今はどうせ可愛くないですよ」 「……」  そこで黙んないでよ。知ってるから。自分が可愛いわけないって充分わかってるから。男でもさ、女の人みたいに可愛い人もいるじゃん。男同士に嵌ったきっかけがそういうのってたまにネットとかでも見つけると羨ましいって思う。俺が女の子みたいに可愛かったら、先生だって間違えて魔が差してくれるかもしれないのに。初等科の頃からほとんど変わってないけれど、そこは変わった。 「今日、部活ほとんど出れなくて悪かったな」 「いいえ。先生、忙しいでしょ? そろそろ夏休みだもん」  初等科の俺も先生のこと大好きだったけれど。 「今年の梅雨は長いから、なんか夏休みが来ないような気がしちゃうけど」  今の好きとは少し違うから。 「雨、止まない気がする」  止まないでいてくれたらいいのに。外に出た瞬間、傘を差すよりも早くびしょ濡れになるくらいの大雨で、車から出る気も失せるくらいの大雨。そしたら、ずっとずっとここに二人でいれたりして。 「……あぁ、そうだな」  ここにずっと二人で。それで俺は先生が間違いを起こしたくなるくらいに可愛い男で、それでね。 「……」  この車の中で、間違えが――。 「ほら、渡瀬、着いたぞ。駅」  間違えは、起こらないから、間違え、なんだ。 「ここから案内頼むな」 「……うん」  雨は止む気配はないけれど、間違えが起こらないと知ってる俺はちゃんと道案内をして、先生の親切に「ありがとうございました」とお礼を言った。  大好きなのに捕まえられないのが苦しくて仕方がない。ホント苦しいのに。 「ぁ、先生っ……せんせ、いっ」  また、もっとずっと好きになっちゃった。 「あっン」  覚えたのは最近。  ずっと怖かったから、しなかったけれど。どんどんどんどん、膨れて破裂しそうだから手を出した。 「あぁぁぁっ」  先生のってどんなんだろ。 「ン、ふっ……直、え、せんせっ」  先生とセックスしたら、どんなふうなんだろ。 「やぁぁ……ン」  今の好きは可愛くないでしょ? 「ン、先生、せんせ、先生っ」  お尻の孔でこんなことする「好き」なんだよ? 可愛くないし、綺麗じゃない、でしょ? 「ぁ、あっ、あっ、ぁっ、ン、んん―っ!」  先生の車の中、わずかに香ったグレープフルーツの香りが自分の髪に、少しばかり移っててたから、したの。  ――柔らかい。  先生がそう呟いて触れてくれた髪に移った先生の香りで興奮して。  ――車、乗ってくか?  そう言ってくれて、車の中でたくさん話した声を耳のとこでたくさん再生させながら。 「あっ……ン、先生」  何度も先生のことを呼びながら、一人で、してたの。

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