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第16話 願いを

 誰にも秘密。  一生、口にすることはないだろう、秘密。  もちろんシュウにだって言わない。ああやって、先生のことを想いながらしてるなんてことは、誰にも、絶対に、一言だって言わない。だって、口に出してしまったら、もしも誰かに言ってしまったら。  言葉にしてしまったら。 「ねぇねぇ、直先生ってさぁ、うちの学校の理事長の娘と結婚するんだって」 「えー、なにそれ」 「すっごい美人っつってた。サラッサラロングの超美人。理事より背が高くて、あの理事長の娘? っていうくらいらしいよ」  どんなに堅く堅く、口止めしたって。 「絶対に内緒だよ? まだ本決まりじゃないみたいだし、パワハラじゃね? って感じらしいから」  言ってしまった時点で、その言葉は一人で勝手に歩き出すんだ。止めても、柵をして囲っても、スルスルって隙間から逃げ出してしまう。 「え……今の、話って、結婚……って、直江先生?」  だから、絶対に秘密は言葉にしちゃ、ダメなんだよ。 「はぁっ、はぁっ」  結婚って。 「こらー、三年生、廊下を走るなよー」 「すみませんっ!」  結婚って、言ってた。 「直江先生っ! っ、はぁっ……っはぁっ」  職員室に、いない。いきなり飛び込んできた俺に、うちのクラスの担任が目を丸くしてた。窓際、先生の席はずっと窓際だ。けど、そこには名簿とか書類とか、今さっきまでいたみたいに広げられてるのに、本人だけがいない。  ねぇ、先生。結婚って? うちの学校の理事長の娘とか、何それ。ねぇ、先生ってば。結婚するの? その女の人と? パワハラって言ってたよ? そんなの訴えたら? 断ればいいじゃん。嫌なら、断っちゃえばいいんだ。結婚って大事なことでしょ?  ねぇ、先生っ。 「うわぁっ!」 「!」  階段を駆け上がっていたところだった。数学準備室かもしれないって、最上階の四階、初等科にいた頃、毎日のように見上げて先生の姿を探した場所。  そこにいるかもしれないって、一階の職員室から駆け上がってた途中で、何も見えてなくて。 「おっとっと……」 「……」 「ビビった。大丈夫か? 葎」 「……シュウ」  上から降りてきた人とぶつかった。シュウだった。  ぶつかってよろけたところを寸前で捕まえてくれたおかげで、十数段ある階段を転げ落ちずに済んだ。 「……っ」 「は? ちょっ、おい! 葎? なっ、どうした? お、おいっ、そんなに痛かったんか?」 「っ」  どうしよ。シュウ。 「葎っ」  先生が結婚しちゃうかもしれないんだって。 「ったく、落ち着いたか?」 「……ごめ」  謝るのと一緒に、ずびって鼻を不細工に鳴らすと、冷たいお茶を買ってきてくれたシュウが笑った。 「……あー、ビビった」 「ごめん」 「俺の顔見て、急に泣き出すから」 「ごめんってば」  シュウは炭酸ジュースにしたらしく、蓋を開けた瞬間、中の空気が逃げ出す音が爽やかに聞こえた。非常階段のとこ。学校の外からは丸見えなんだけど、学校の校内としては端の裏側だから、この非常階段に用事でもある人が来ない限り、見つかることはない。 「…………なんか、あった?」 「……」  なんかあったら、よかった。なんもなくて、なんにもできないってわかったら涙が出たんだ。  先生が結婚してしまうかもしれない。でも、生徒の俺にそれが何の関係があるんだろう。パワハラじゃないですかと一生徒が騒いだところで、先生の立場が悪くなるだけなんじゃないの。  三十一歳、まだ結婚してないけれど、そのうち、するんでしょ?  理事長の娘がすごい美人で、優しくて良い人だったら?  先生がイヤがってるかどうかじゃなくて。  俺がイヤだって思っただけ。先生の職場の生徒の俺が。先生の私生活なんてこれっぽっちも関係のない俺が。  それにね、思ってしまったんだ。  先生がもしもその結婚をイヤがって、理事長に断ったとして、怒ってクビになってしまったら? どこか別の学校に行くことになったら? パワハラってそういうものでしょ? それを、俺はイヤだと思った。  どこかに行っちゃったら、イヤだって。  あれもイヤ。これもイヤ。  なんて自己中なんだろうと呆れたんだ。呆れて涙が出てきた。  そして、もう残り一年しかないって痛感した。先生は先生で、俺は生徒で、学校っていう場所で数年間遭遇しただけなんだ。いつかは卒業してここを離れてしまう。長い長い期間ではあるけれど、俺は先生にとって勤め先にいた通り過ぎて行く一人の生徒なんだと実感した。 「……なんも、ないよ」  ただ通り過ぎて行くだけの生徒にはなんもない出来事で悲しくて、涙が零れたんだ。 「……フラれた?」 「んーん、フラれてもいない」  もう一年もない。ここにいられるのも、ここで先生と会えるのも。 「ぇ、なにそれ、ラッキーじゃん」  シュウの嬉しそうな声にびっくりして、涙がぽろりと零れた。 「すげぇラッキーじゃん!」 「……」 「フラれてないなら、それこそ諦める必要ねぇじゃん」 「……」  それって、なんか。 「だってさぁ、そう簡単に諦められなくねぇ? 俺、すげぇ時間かかったもん。ちょいちょい見かけるし。見ちゃえばさ、やっぱ好きじゃん? 無理だろ」 「……」 「そう簡単に諦められるかよ。好きなのに」 「それ……我儘」  その一言にシュウが大きな声で笑った。  我儘だろ。好きになるのなんて。あれしたい、これしたい、これもしたい、そんなの「したいこと」ばっかでできてるんだから、そう言って笑って、炭酸をぐびぐび飲んだ。 「諦めるなよ」 「……」 「言う前から、諦めんな」  シュウはジュースで濡れた口元を手の甲で拭う。 「俺は、応援してる。幼馴染で親友だからな。あと、片想いをずっとしてるのって、すっげぇ切ないって、俺は知ってるから」  そして、あっけらかんと笑ってた。  ホント、そう簡単に諦めきれるのなら、最初から好きになんてなってないよ。 「…………先生」  こんな実ることなんてない片想いずっとしてない。  ねぇ、先生、知らないでしょ? すごくすごく苦しいの。苦しいのに諦められないくらいに好きなんだよ? 「……こんなところで寝てると風邪引くよ? 数学準備室でさぼってるの、怒られるよ?」  苦しくても、好きなの。  どうしても好きなの。 「ねぇ、先生」  いつもそう呼びかけてる。胸のうちでだけ、ねぇねぇ、っていつも先生のこと呼んでる。今、初めて、それを声に出した。 「お願い、誰のものにもならないで」  今、初めて、ずっと胸にあった願い事を口に出した。

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