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第17話 ボタン

 先生が理事長の娘と結婚させられそう。そんな噂が広まって、先生の耳にも届いちゃったのかもしれない。  数学準備室にいるところをお邪魔したことなら何度もあるけれど、うたた寝しているのは初めて見た。疲れてるのかな。寝てないのかもしれない。その結婚とかのことで悩んだり、噂になってしまって、事態が変なことになるかもとか心配したりして、眠れなかったのかもしれない。  俺がいる間、先生は目を覚まさなかった。  起きてくれるのを待ってたんだけど、ちっとも起きなくて。部長の俺が部活に行かないわけにはいかなくて、仕方がないから部活へ向かったんだけど、先生は結局その日、少し顔を出した程度だった。  もうすぐ夏休みで、先生に会える機会はグンと減っちゃうのに。  学校があるうちは少しでもたくさん会いたいのに。  だって、もう一年もないんだ。 「ぁ、先生だ」 「宜しくお願いしまーす」  先生にこうして会えるのは、もう一年もない。  学期末ということで急がしかった先生は最近少し部活に遅れて顔を出すことが多かった。でも最終日だからなのか今日は早くに来てくれて、ただそれだけで皆の雰囲気が違う気がする。  シャツにスラックス、ネクタイはしてるけれど、暑いよね。シャツの袖をまくってて、ただの腕なのに、なんで、先生のはカッコよく見えるんだろ。  ドキドキする。 「渡瀬部長、夏休みの予定表ってまだ余ってたっけ?」  副部長に声をかけられて、慌てて目を逸らした。じっと見てたら、変だもんね。でも久しぶりすぎて、目が離せなくて。 「あ、うん。ちょっと待ってて、何部必要? 俺、今、数枚なら持ってるよ」 「あー、二枚」 「はーい」  副部長の市川は身体が大きくて、どっちかというと俺よりもずっと部長っぽい。でも、そういうのは苦手らしい。後方支援っていうか、サポート役をするのが好きなんだって。 「えーと、鞄の中に……」 「今年は雨ばっかりだったけど、ようやく夏っぽくなってきたな」 「え? あー、うん。そうだね」  ずっとずっと雨の日ばかりで、梅雨が明けないのかと思ったくらい。夏はもう来ないのかと。 「……暑いね」  でも、夏が来ないのなら、それはそれでいいなぁなんて。夏も秋も来なくて、ずっと梅雨で季節も時間も止まって、俺たちは高校三年生のまま、卒業もしなくてさ。  なんて、困っちゃうよね。嬉しくなるのなんて、俺くらいだ。 「昨日、後輩に三年の引退を寂しいと言われた」 「えー、そうなんだ。嬉しいね」  夏、来ちゃった。弓道場の射位の向こう、屋外の場所は眩しいくらいに夏の日差しが降り注いでいる。ついこの間まで雨で薄暗い時すらあったのに、今はもう夏真っ盛りの景色になってた。 「だから、夏休みの後半に何か部員集めてできないかな。後輩たちが渡瀬らともっと話したいって言ってたぞ」 「俺? 俺なんて、普通に話しかければいいじゃん」 「……あぁ、渡瀬は、わかってないのか」 「?」  なんのことだろうと首を傾げた時だった。  顧問の、直江先生が俺を呼んだ。 「! は、はい!」  やった。先生に呼ばれた。ただそれだけで、もしも尻尾が俺に付いてるのなら、ぶんぶんと振りたくるほど嬉しくて、返事の声が不思議に思われそうなくらいに弾んでた。  夏休み前、最後の部活でようやくまともに顔見られた。しかも面と向かって。話しかけられたのなら、じっと見つめてもおかしくないでしょ? だから、こういう時は、大手を振って見つめることにしてる。 「部活動禁止期間のことはもう伝えてあるな?」  話してる時なら見つめててもいいでしょ? 目が合っても……平気、でしょ? 「……は、い」  でも、先生は視線を横にずらしてる。目が合わない。  八月の一番暑くなるだろう時期だけは屋外での活動がある部は全て休止するように言われてる。八月終わり、最後の大会前でも練習は最小限にって。もちろんシュウのとこなんかも、そう……だけど。 「あとは大丈夫だな」 「……」  小さな違和感。 「それじゃあ練習、秋の大会に向けて夏休み中しっかり練習するためにも、休み前、怪我のないようにな」  けれど、確かな違和感。  先生がこっちを見ない。  いつもだったらも目が合ってた。いつもだったらもう少し笑ってる。いつもだったら……いつもと違う。  なんで?  俺、なんかしたっけ? 「あ、あのっ、先生っ」 「夏休み前、最後の練習だな」 「……は、い」  なんでだろう。普段なら初等科からのくせで敬語なんて使わず「うん」って返事をするのに。 「練習、宜しくお願いします……」  うん、って言えなかった。  だって、先生の表情は少し険しくて、あまり近寄って欲しくなさそうだったから。  担任じゃないんだ。数学の教科担任ってだけ。一学期の部活が終わって、数学なんて子どもの頃からずーっとずーっと、ずぅぅぅぅっと勉強しすぎたせいで、どの教科よりも得意中の得意。もちろん、夏休みの特別補修授業の参加権利もなし。  こんなことなら赤点を取っておけばよかった。  そしたら、もう現時点、夏休みに入ってすぐ、一回はすでに会えてる。  だって、あんなに数学やっといて赤点なんて取ったら呆れられてしまうって思うじゃん。バカって思われたくないじゃん。  先生が教えてくれるからこんなに成績優秀なのって体現したいじゃん。 「……はぁ」  日中は暑くて外に出る気にならなくて、夕方、ようやく涼しくなったところで、ショッピングモールの中にある大きい本屋さんで数学の問題集と英語の翻訳ブックを買いに来ていた。その帰り、外に出て、もう夜になった夏の空に向けて溜め息を吐いた。  ようやく明日部活だ。  八月になったら半分ごっそり練習できないのに。練習できないってことは部活がなくて会えないのに。  もっと練習試合を先生に言って依頼してもらえばよかった。  ――ずいぶん熱心だな。練習試合、去年よりかなり組んでるぞ。  ――だって先生、うちら最後の大会なんだよ? 歴代弓道部で最高成績収めたいもん。  ――もう充分、お前は成績優秀だろ。  ――目指せ優勝だから。 「……」  思い出したら切なくなってきた。職員室でもっと練習試合を組んで欲しいってせがんだ時と、夏休み前のそっけないと感じた先生の表情の落差に。  まるで弓道場の涼しい射位から見る真夏の外の景色くらい、の差があって。  明日も、あんなふうにそっけなかったりして。 「っ」  っていうかさ、なんか、俺怒られることしたっけ? でも部活動中は全然普通だった気がする。  結婚のことでイラついてるとか? そんななら断ればいいじゃん。結婚がパワハラまがいなら、イヤですって突っぱねて、よくわからないけど教育委員会でもなんでも告げ口してしまえばいいよ。  とにかくさ。  とにかく先生に会いたい。今頃どうしてるんだろう。明日の部活は最初から来てくれる? そしたら俺も少し早く行こうかな。道場開ける中等の皆を手伝いにっていう名目で。 「……」  先生に、会いに。 「……」  そう願ったからかな。  前にもこんなことがあったっけ。あの時は先生の名前を呼ぶ人がいて、それで顔を上げたんだ。もしかしたら本物の先生かもって思ったんだ。それで、女の人とデート中の先生を見かけて、すごいショックだった。  俺が、初恋を自覚したきっかけだった。あの瞬間、先生のことをそういう意味で好きなんだって、自覚した。  神様は俺の味方なの? それとも、俺のこと、嫌いなの? 「……」  なんでこんな意地悪するの? 「……先生?」  ショッピングモールを出て駅へと続く階段をのぼってた。端に下り専用のエスカレーターがあって、そこを先生が女の人と並んで降りていくのが見えた。  並んで、見えないけれど、女の人の腕の感じで先生に抱きついてるのはわかる。向こうは自動で降りて行くエスカレーターに暢気なもので、こっちには気がつかない。  ――すっごい美人っつってた。サラッサラロングの美人。  ショートカットで色白の女の人。 「……誰?」  そのショートカットの美女は先生に身体を擦り付けるように抱きついて微笑んでた。  ――カシャ  気が付いたら、撮ってた。先生を撮って、保存を押した。 「……」  それは、あと一年後にはなくなっちゃうこの初恋を終わらせるボタンだった。

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