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第26話 夏の日差し

 チェックアウトギリギリ。  でも先生はやっぱり大人だ。ついさっきまで洗面所でセックスしてたなんて想像できない、普通の顔をして普通にチェックアウトをしてた。俺はそれをフワフワした心地でソファのとこから眺めてた。 「具合悪くなったらすぐに言えよ」 「ならないってば」 「……」 「ただ、気持ちイイだけだもん。ゲェェなんてならないし、車酔いもしてない」 「……本当か? でも」  片手運転、危ないよ? くねくね道なんだから。  先生は片手でハンドルを、もう片方の手をこっちに伸ばして、指を曲げた関節のところで唇を優しくなぞった。唇同士のキスとは違う、骨っぽい堅いのが触れるのも、ドキドキする。 「気持ち悪くないってば、そんなに心配しなくて大丈夫だよ。っていうか、ギリギリまで、その、してたからふわふわしてるだけだし」 「……」 「ギリギリまでしてくれたの、嬉しかったし」  唇を触ってくれていた手がいきなり頭の上に移動して、髪をワシャワシャと掻き混ぜた。  行きだったらぐしゃぐしゃになっちゃうじゃんって、文句を言ったかもだけれど、もう帰るだけだし、お風呂入っちゃったし。 「ね、先生、あの匂いって香水?」 「?」 「いい匂いがするの。先生って」 「あぁ……」  今はしない。でも、普段はしてるから、お風呂入って流れちゃったのかもしれない。 「そんなようなもんだ」 「……」 「臭いか?」  少し遠くを見た気がした。でもすぐにこっちを見て、そんなおかしな心配をするから慌てて否定したんだ。臭いわけないって、先生のあの匂い好きだよって、急いで否定するのに忙しくて。  その時、先生が見たその遠くがどこなのかはあまり気にならなかった。 「乗り物酔いするほうだったんだけど、初等科からずっとバス通学してたら慣れてきてて、あの日ば酔い止め飲まなかったんだ。そしたら、バスの中で甘ったるい匂いが漂ってきてさ」  あの匂い、今思えば女性物の香水だったんだと思う。それが胃をムカムカさせて喉奥に甘い異物感をへばりつかせて気持ち悪くて、悪くて。 「先生のあの匂い、すごい好き……すごい落ち着く」  爽やかなグレープフルーツの香り。爽やかで、少し苦いくらいなのに、それが妙に心地良くて、俺はその匂いのするハンカチをぎゅって握りながら保健室でぐっすり寝てた。 「……そうか」 「うん、大好き」 「……今は、するか?」  今度は指で鼻先を突付かれて、そのまま唇に触れる。 「……んーん、しない」  先生は俺の唇、気に入ってたりするのかな。よく触ってくれるから。もしも気に入ってくれてるのなら、今度口で――。 「でも、好き」  目を閉じて、その指先にキスをした。少し尖らせた唇で触れると、ドキドキする。目、閉じてるからかな。指先は唇よりもずっと堅くて、でも木とかよりは柔らかくて、少しだけ、あれを連想させる。先生の、堅くて太くて、熱いのを。 「ん……大好き」  思いながら、揺れる車内、目を瞑ってキスをした。  やった。やったやった、やったー。 「ただいまぁ」 「おかえりーご飯はいらないんでいいんだよね?」 「うん、大丈夫、ありがとう、お母さん」  玄関に顔をひょこりと出したお母さんに挨拶をして、自室に入った。  朝、デートに浮かれて服を選んで、落ち着かない子どもみたいな浮き足だった気持ちで、スキップしちゃいそうな気持ちで「いってきます」をした部屋。 「……」  ベッドに倒れ込んで目を閉じた。そして、高鳴る胸を手で押さえて目を瞑った。 「……まだ、ドキドキしてる」  目を閉じるとさ、感覚が敏感になるからかな。  ――先生、送ってくれてありがとう。  ――あぁ、少し遅くなったかもな。  ――全然大丈夫。あの、今日はありがとうございます。それじゃおやすみなさい。  ――あぁ……おやすみ。  最後、車を降りる時、キスしたんだ。好きって言ってない、おやすみなさいって言っただけ。でも、キスをくれた。交換条件でもなんでもなく、ただのキスをひとつ。 「うわぁ……どうしよ」  夢心地の今日一日を噛み締めて、照れて嬉しくなって、恋しくなって、幸せになって、切なくなって、一人でしばらくあっちに転がってこっちに転がって、初めてのデートを満喫してた。  学校は私立だから学区とか関係なくて、少し遠いとこにある。電車とバスを乗り継いで一時間とちょっと。バスがたまに運悪く渋滞とかに巻き込まれちゃうともっと時間かかっちゃうけど。  でもほとんど歩かないから夏と冬はありがたい。眠ろうと思えば眠れるし。 「えー、デートに図書館とかありえない」  後ろの人たちの会話が耳に飛び込んできた。デート、なんて単語今までなら全然興味なかったのに。 「でもさぁ、涼しくて、無料で超良くない?」 「良くない! っつうか、やっぱ、プールでしょ。ね、あそこのプール良くない?」  プールかぁ。さすがにプールは怖いよ。それこそ、めっちゃ遠くならありえるけど。でも、あそこ、高かったよね。初デートの旅館のとこ。お泊りじゃないけれどあんな高級そうなところ数時間でもきっとすごい金額になる。 「あとはやっぱ海でしょー」  海か、海なら、いいかも。日帰りでいけるし。あー、けど、先生のあの裸を見ちゃうとプールはちょっとナンパの魔の手とかすごそう。塾女から若い人まで一気に飛びかかってきそう。 『次はぁ、学園前、学園前』  降りないと。 「海いいよねぇ。水着買わなくちゃ」  水着ね、先生と一緒に行ってみたいけど。でも。そもそも――。 「あ、渡瀬部長おはようございます」 「おはよー」 「渡瀬ぶちょー、おはようございまーす」 「おはよう」  暑いよね。今日、午前の練習でよかった。夏休み二回目の弓道部練習日。夏ギリギリまですごく長い梅雨があったせいか、やたらと暑くて。夏の鋭い日差しもなんか普段よりもきつく感じる。  でも、この日差しも山の木々の隙間からだとすごく気持ち良くて清清しいんだよ。川の音は心地良くて、蝉の鳴く音は胸の高鳴りを倍増させて、それで、夕暮れ、ひぐらしの鳴く音は少し切なかった。  あの日差しも音も全部、先生とした初めてのデートとしてきっと残る。  ねぇ先生、また、デートできるのかな。 「……おはようございます。先生」 「……あぁ、おはよう」  また、デートしてくれますか? 俺と。

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