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第33話 大人になったら

 国塚先輩は、高校三年の時、あの当時、中学生だった俺からしてみると、大きくてずいぶん大人に見えたっけ。でも、今よりはずっと細かったように思える。  今は……うーん、そうだなぁ。  腕は太くて、肩もしっかりしてる感じ。首もこんなに太くなくなかったかな。どうだろ。  ちょうど隣に先輩が座って、二年の一団に教えてくれてる時だった。中等から順番にすごく丁寧に勉強を見てくれている。皆、わかりやすいって、先生になって欲しいなんて言ってる子もいたくらい。  そんな隣に座った先輩の腕を、過去の先輩のと比べて観察してた。 「渡瀬、問題、手が止まってるぞ」 「! は、はい」  長くて、骨っぽい指が、公式を当てはめてる途中で止まった俺のノートを、トントンって指摘した。  先生の長い指。 「う、うーん」 「市川は……あぁ、お前、それは夏休み前の授業でやっただろうが」 「そ、そうなんですけどぉ」  やれやれって溜め息をついて、背中を捻って、頭を抱えた市川へでも丁寧に数学を解いてあげる。大きくてカッコいい背中。 「ほら、渡瀬、手が止まってる」 「は、はいっ」  ちょっと、ラッキー。  急遽行われることになった勉強会。場所は弓道場から移って、顧問である直江先生の担任している一組の教室。  一組が羨ましい。朝と夕方、必ず二回は先生と会えるなんて。俺のいるのは五組だから、少し遠いんだ。だからかな。なんだか別の村? 街? なんというか、別世界に来たみたいに教室の雰囲気が違っていた。  整然としていて、張り紙とかも微妙に違う配置。  ここが先生の教室。 (葎……) 「!」 (キョロキョロするなよ)  内緒の内緒のこそこそ話。  だってすぐ近くに市川がいる。他の三年は夏期講習があるからって帰って行った。市川は塾とか行ってない数少ない受験生。  キョロキョロしちゃうよ。 「ほら、渡瀬、ここ注意って言っただろ」 「あっ……」  ブッブー、になってしまった。残念。不正解。  でも先生はただバツの印をつけるだけじゃなく、その問題を丁寧にちゃんと教えてくれる。 「ここ、もう一回やってみろ。まずはここが引っ掛けになってる」  大好き。  先生の数学を教えてくれる時の穏やかな声。 「これを見落とすと……」  小さい頃から好きだった。あの頃は算数。中等になってもね、先生に構って欲しくて「数学教えて」って頼むと教えてくれてた。職員室じゃなくて、廊下でもどこでもその場で丁寧に、落ち着いた声で。  先生の教えてくれる優しい声が、大好き。 「渡瀬」  ――葎、自分で動いてみろ。 「そうそう、それで正解」  ――上手だ。葎。 「じゃあ、今度はこっち」  ――葎、腰、浮かせられるか? そのまま沈んでごらん。奥まで、自分で。 「渡瀬?」 「!」  熱がじくりと底に滲んだ。 「っ」  先生の算数を、数学を教えてくれる穏やかな声。  セックスしてる時の少し掠れて熱っぽい声が重なって。 「ご、めん。俺、トイレ行ってくるっ」 「おー」  慌てて立ち上がると、呑気な市川の声を背に、席を立つと、三年のトイレに駆け込んだ。  びっくりした。  だって、今までこんなことなかったから。  って、考えたら先生とセックスしたのは夏の初めだ。だから、先生をしている時の先生じゃない。  だから、なんだか思い出してしまった色気たっぷりな声を。 「……どうしよ」  俺、ちゃんと二学期が始まったら授業受けられるのなか。なんだか想像もしなかった悩み事が生まれちゃった。 「何か、用だった?」 「!」  てっきり先生だと思って振り返った。けれどそこにいたのは先生じゃなかった。  国塚先輩だった。  鏡の中の自分を夢中になって見つめてたら、背後に先輩が来ていることに全く気がついてなかった。  トイレの入り口のところに国塚先輩がいた。 「さっき、見られてるーって、思ってた」 「……い、いえ、ごめんなさい」 「いや、怒ってるとかじゃなくてさ、なんだろうなぁって思っただけ」  ふわふわって笑いながら、弓道部部長をしていた頃は短かったけれど、今は長い前髪をかきあげた。 「あの頃はまだ俺中等だったので、すごい上の人だなぁって思ってたんです」 「あー、まぁ、そうね。あの頃って、けっこう上下関係厳しくしてたもんね。今ってけっこうフランクだよね。中等の子らが、渡瀬たちがすごい優しいって言ってたよ」  そういう上下関係が好きじゃなかったから、率先して分けないようにしてた。でも、俺が中等の頃はたしかに掃除片付け、始めの準備、全部中等がしてたんだ。 「あれ、なんつうの? あの頃はさぁ、まだ優等生だったっていうか、真っ直ぐだったんだろうねぇ。もう、なんだかんだいっても、二十四だからさ。同級生の大半がもう社会人の年齢だから」  それはとても先のことのように感じた。ずいぶん大人だと思った。  そして、先輩もそういうことが言いたそうに目を細め、色々経験しましたからって、まるで眩しいようにこっちを見つめる。  先生はもっと大人。  だから、俺はいつでも、ずっと早く、誰より早く大人になりたいって思ってた。 「渡瀬は、あんま変わらないな」  けれど、大人になったら、もっと男の人みたいな体格になっちゃうの?  先輩が言ったように真っ直ぐでいることを眩しく感じるようになるの? 「白くて、華奢で」 「……」 「高校三年とは思えない」  それなら俺はこのままがいいって。 「可愛い」  初めて思った。 「渡瀬」 「! す、すみません! 失礼します!」  慌ててその場を立ち去った。立ち去りながら、あんな大人にはなりたくないと思った。先生に追いつけるように、いつも早く早く大人になりたかったのに。今、すごく、先輩のような人にはちっとも、これっぽっちもなりたくないと、思った。

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