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第35話 なしは、なし

 八月になると、グンと、練習量が減る。猛暑のせいだ。熱中症とかで倒れられたら困るから、学校から練習時間の短縮、練習曜日の低減がとくに運動部には通達されてる。あまり運動部というほど激しい練習はしてないけれど、弓道部ももちろんその練習削減対象の部活になっていた。  シュウはそのことに大ブーイングしてたっけ。この前、もっと練習したいとかぼやいてた。  うちも八月の終わり、夏休み最後の週に三年の俺たちが出場する大きい大会がある。それがラスト。その大会で引退。新学期からは受験一色になってくる。  もう少しで、夏休みが終わっちゃう、なぁ……なんて、お蕎麦屋さんの帰りに思ってた。  窓の外を流れる夜の町並み、夏休みだからさ、人通りの多い辺りとか駅前辺りを通ると同じ歳くらいの子がちらほらいた。  夏休みだから。  夏休みは夜が長くて。 「……今年、海とか行くのか?」  少しドキドキする。 「え?」  お蕎麦屋さんの帰り道、うちの近くまで送ってくれるって先生の車の中から、外の景色を眺めてた。  小さく聞こえる音楽は洋楽。落ち着いた雰囲気の優しい曲。でも、知らない歌ばかり。それにボリュームが小さくて、音は聞こえてるし、リズムは聞き取れるけれど、メロディまでは把握できなくて、そっちに気をとられてた。先生のことなら何でも知りたいから、何をいつも聞いてるんだろうって。 「家族で、とか、友だちで、とか、海、誰かと行くのか?」  運転中の先生は真っ直ぐ前を見ながら、低く落ち着いた声でそう尋ねた。  聞き返すけれど、先生は運転に忙しいから前だけを見てて、ハンドルをぎゅっと握っていた。 「行かないよ。一応、受験生だし。大会の後、バーベキューがあるから、それくらいで、あとは、とくに……」  彼氏、彼女がいる人は違うかもね。デートとかで行くかもしれない。海、別に特急とか使えば、片道二時間ちょいくらいでいけるから。日帰りで……もしも、彼氏とか、彼女がいるのなら。もしくは友だちと、もありえるだろうけれど。俺、そういうキャラじゃないでしょ? 男友だちと海ではしゃぐっていう感じでもないでしょ? 男子ばかりで行くと女子に声かけようとしたりするしさ。  でも、もしも、好きな人と二人でなら。 「そうか……」 「……うん」  好きな人となら、行きたいけれど。 「…………もし、よかったら、海、行くか?」 「…………えっ!」  思わず大きな声が出た。 「いや、なんでもない。お前も一応受験生だもんな。なんでもないよ。別に。忘れろ。また……」 「やだ! 行く! 海!」 「……」  言ってしまった言葉は見えないけれど、でも取り消しはできないよ。  だから、もちろん言ってからの後悔もなし、だよ。  ねぇ、先生。今、くれた言葉聞こえたもん。やっぱりいい、とか言って取り下げないで。もう聞いちゃったし、もう期待しちゃった。 「海! 行く!」 「いや、いいよ。さすがに泊まりは、ダメだな」 「行くし! 泊まり! 許可! 取れば! いいんでしょ!」  もう、ものすごく期待しちゃってるから、なしは、なしだよ。 「……」 「やだ!」  葎って、なだめようとする先生の声を掻き消して、声で吹き飛ばした。先生の耳が「キーン」って気圧されるくらいに大きな声で。 「…………」 「先生!」 「…………わかったよ」  カッコいい先生だって押し倒す勢いの声で。 「海、行くか?」 「うん! 泊まりで!」 「……わかった。あぁ、そうしよう」  観念したかのように先生が溜め息混じりにうなずいた。お腹がいっぱいで眠くて、弓道の練習あって、勉強会あって、そのあとお蕎麦屋さんに行ったりもして疲れてて、うっかり寝惚けて呟いただけなんて言わせないから。 「はい! そうします」  元気に返事をすると、運転中で前を見たまま先生が笑ってた。こんな時だけ敬語だなって笑って、ハンドルを握っていた手の力を抜いて、長い指でトントンって小さく聞こえてくる音楽に合わせてリズムを取っていた。 『泊まり旅行のアリバイ?』 「うん……ダメ?」  シュウにしか頼めないんだ。 『急に?』 「……うん」 『この夏の真っ盛りで?』 「……うん」 『……』  やっぱ、ダメ? さすがにそこは嘘つくなよって怒る? サッカー部部長として、親友として、幼馴染として、さすがにダメ? 泊まりの相手を言えないのに、アリバイ作りにだけ協力して欲しいっていうのは都合が良すぎる? 「……ごめん。けど、どうしても行きたいんだ。急なんだけど、でも、名前貸してくれるだけでいいから、それ以上に迷惑になるようなことは絶対にしないから。だから、お願い、協力して欲しい。ホント、自分勝手なんだけど、でも……あの、シュウ?」 『……』  返事はなくて、でも、電話の向こう、さっきからずっと聞こえてた小さな物音と人の話し声。トントンって足音がしたかと思ったら、誰かと、シュウが話してた。 「シュウ?」  もしかして呆れて電話ごと放り出された? 『もしもし? 葎? いつだっけ?』 「え? あの」 『その海行く日』 「あ、えっと、明後日、から一泊なんだけど。悪いことっていうのは、そのわかってるんだ。だけど」 『待ってろ』  話しの途中だったけれど、シュウがそう言うから言葉を止めて。そして、次に電話口に出たのは女の人だった。 『あ、あのぉ、もしもぉし』 「……ぇ?」 『あ、あのぉ、私、お隣に住んでるんですけど』 「え?」 『今、シュウに頼まれてぇ』  女の子の声。それに隣に住んでるって。もしかして、この人って、シュウの。 『アリバイ、お手伝いしますよぉ』 「……」 『あ、ちょ、シュウってばぁ』 『そんなわけだ。葎』  電話の向こう、女の子が慌てて、そしたらシュウが出現した。 「あ、あの、今のって、もしかして、その、前に」 『あー、まぁ、そう……そんで、葎の海一泊のアリバイを手伝ってくれるからさ』 「……え、あの」 『反対なんてしねぇよ』  さっきの女の子が電話の向こう、シュウの背後でガンバレーって言ってくれてた。 『どんだけ長い付き合いだと思ってんだ』 「……」 『反対なんてしないし、手伝うよ。アリバイ』  親に嘘つくのは悪いことだってわかってる。それでもやっぱり好きなんだ。好きな人と一緒にいたい――っつうの、わかるからさ。  そうシュウが言って、「けど、海いいなぁ」って笑っていた。  報酬は数学のノート一冊分、二学期からレクチャー付きレンタル、でいいぞって、また笑っていた。

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