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第36話 生家

 シュウのお父さんが勤めてる先の保養所で急遽一泊空きが出たから、せっかくだし格安だから行くことになったんだって。それで、受験生だけれどそのまま大学は合格圏内、安全エリア、日頃頑張ってるのだから、たまには羽を伸ばすのもいいと思う。  そんな理由をシュウが考えてくれた。お隣さんで、シュウの初恋相手の由香里(ゆかり)さんを巻き込んでの大芝居――ってほど大掛かりでもないけれど。  電話をうちにかけてもらって、シュウの保護者、お母さん役が由香里さん。何回も練習して大人の、お母さんらしい口調を真似て。  いつか、私もお母さんになるし。結婚するし。  そう息巻いていた彼女の隣で、シュウはほんのちょびっとだけ寂しそうにしたけれど。  由香里さんはとても快く引き受けてくれた。親に反対されたけれど、それでも結婚することを選んだ彼女だから、俺のことを応援してくれた。  優しくて、芯があって、笑顔が可愛い、素敵な人だった。シュウが好きになったのがわかるって思えた人だった。  ごめんね。  ありがとう。たくさん手伝ってくれて。  親に嘘つくなんてとても悪いことだけれど。  でも、どうしても、好きなの。 「先生!」  先生のことがどうしても好きなんだ。海、一緒に行きたいんだ。 「でもよく取れたね。お盆すぎたけど、でも、海なんてどこも満杯でしょ?」  車は海岸線沿いをずっと走ってる。海面は小さな波で揺れて、その小さな波ひとつひとつに太陽の光が降り注ぎキラキラと光ってた。  そんな眩しい海岸を左側に捉えながら、車はずっと走り続け……てばかりではないかな。ところどころ、人が賑わうビーチの辺りに差し掛かると急に車が進まなくなるから。そしてそのノロノロ運転でビーチを通り抜けるとまたスイスイと快適に走り始める。そんなのを二回ほど繰り返した辺りで、先生の車が右へと曲がった。 「宿じゃないんだ」 「……そうなの?」  じゃあ、ホテル? とか? でも、ホテルも宿も同じようなものだよね。それにこっちに宿なんて、あるのかな。 「……着いたぞ」  そう先生が小さく告げて車を止めた。その車の横には垣根の枝が少し乱れている一軒の平屋。 「……ここ?」  先生の、うち?  車を降りると蝉の鳴き声が溢れるように耳に届く。俺の背丈じゃ中を覗けないくらいに高い垣根の中、黒い鉄製の門を先生が開けるとギギギギってさび付いた音がした。  古い平屋。  石畳が玄関まで続いていて、庭もあって、草がちょっとだけ生えていた。  先生が玄関の鍵を開けると、まるで職員室みたいにカラカラと軽い音がした。 「中、蒸し暑いけど、どうぞ」 「……ぁ、あの」 「俺の実家だよ」  先生の?  でも、一歩足を踏み入れて、ここが先生のうちだってすぐにわかった。 「にしても暑いな」  あのグレープフルーツに似た香りがしたから。 「窓、開けるの手伝ってくれるか?」 「あ、うんっ」  そう思ってんだけど。 「?」  これって、どうやって。 「現代っ子だな」  鍵の開け方がわからなくて、手間取っていたら先生が来てくれた。窓際に立っていた俺を背中から抱き締めるみたいに手を伸ばして、ただ鉄の、ねじみたいなものを窓枠から引き抜く。そういう鍵なんだって。  初めて見た。  すごい怪力な人なら簡単にうちの中へ入れてしまいそうな鍵。 「先生、あの、ここって」  窓を開けたら、さっきまでの暑さが嘘みたい。 「母と二人で、ここに暮らしてた」  風が抜けて嘘みたいに熱気が家の中から消えていく。 「悪いな。旅館とかじゃなくて」 「う、ううん! 全然! 俺、嬉しいよ!」  だって、ここ。 「旅館じゃなくて、ここ、なの、嬉しい……」  先生のうち、だ。先生の匂いがする。 「そうか? けど、ボロだぞ」  先生の声が違ってた。 「色々カルチャーショックかもしれないぞ? さっそく鍵、わかんなかったしな」  先生の笑った顔も違っていた。  今は誰も住んでないんだって。  でも生家で潰したくなくて、維持費そうかかるわけでもないから、そのままにしてる。近所に親戚もいるから、その親戚もたまに掃除をしに来てくれて、先生も年に数回、こうして家の手入れのために来てるんだって。 「草、裏手にいっぱい生えてたよー」 「あぁ、悪いな。こっちは大方済んだ。昼飯食べたら、海に行くか」  うわ、すごいレア。先生がタオルを首に巻いてる。ちょっとおじさんくさくて、なんか可愛い。 「疲れたか?」 「ううん! ちっとも」 「そりゃすごいな。さすが」  笑いながらその首に巻いたタオルをほどくと、雑に顔を拭った。そして、そんなレアな姿に見惚れている俺に苦笑いを浮かべながら、なんだよってぶっきらぼうに言って、かぶっとけって貸してくれた麦藁帽子のツバを手で引っ張った。見えなくしないでよ。レアなおじさんみたいな先生が可愛いのに。 「ほら、昼飯にするぞ」 「はーい」  先にうちへと戻る後ろ姿が汗でびっしょりだった。  襟足のところに汗の雫をくっつけて、乱れた髪を無造作にかき上げる。  いつもと違う先生がたくさんいる。 「葎?」 「! うん。今行く」  Tシャツの袖を肩のところまで捲くり上げた先生の後をついて走って、俺もうちの中へ。  窓を全て開けたままにしているから、もう薄れてしまったけれど、でもあの爽やかな匂いがまた鼻先を掠めた。 「そうめんでいいか?」  足を踏み入れる度にドキドキした。 「うん。俺も手伝う」  ここは誰も入れない、先生の一番深い奥のとこな気がして、そこにいてもいいと言われてるって感じられて、胸がね、鼓動が、すごくうるさくなる。  トクトクトクって。  ねぇ先生、ってずっと大喜びしてるんだ。

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