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第41話 背くらべ
やだなぁ、まだ帰りたくない。もう朝ごはんも済ませてちゃった。あとは、もう帰るだけ。やだやだって、この柱にしがみ付いて、駄々っ子の真似でもしてみせようかな、そう思って近くにあった柱をじっと眺めた。
そしたら、ふと、見つけたんだ。
柱の傷。ちょうど、俺の胸の辺りの高さで、横に少しよろけながらも走る一本の傷。ほら、よくテレビとかで見たことある。うちはお母さんがそういうの嫌がるし、それ専用の木の板が子ども部屋につる下げてあったから、しなかったけれど。
背がどれだけ高くなったのかっていう成長の証を柱に刻んでおくみたいなの。
「……小学四年」
もう木材自体が古くて少しくすんでいるせいか、文字も読みにくくなってしまっているけれど、その柱の傷の横にとても綺麗な字でそう書かれてる。
やっぱりそうだ。これ、先生の。
「それ、懐かしいな」
「!」
先生の身長比べの痕。
それに見惚れてたら、いつの間にか先生が背後に立ってた。
「へぇ、小学四年かぁ」
「あ、あの、これって」
「母親の字だ」
先生のお母さんの字。そして、小学四年生の先生の背がここ。柱の前でそれらを眺めてたら、覆い被さるように後ろから手を伸ばして、柱を撫でた。もう帰る時間、だよね。荷物持ってるし。
やだなぁ。帰りたくないなぁ。もう少しだけでもここにいたいなぁ。
「ね、先生、俺も触ってもいい?」
「? っぷ、あぁ、どうぞ」
「やた!」
俺より背が低くて、小さな先生。
「ね、どんな子だったの?」
「……」
「ねぇ、先生って、どんな子?」
「俺?」
うん。そう。
俺の知らない先生。俺より小さな先生。それこそ、先生じゃない頃の。
「俺は……普通だろ」
「えー? 何して遊んでたの?」
「何って、この辺なんもないからな」
夏は海か近くの林。自転車であっちこっち、いけそうなところを探検して回ってた。冬は海辺は寒くて寒くて、でも、やっぱり走り回ってた。得意だった勉強はやっぱり数学。苦手だったのは社会。暗記ばかりで眠くて退屈で仕方なかった。でも何より一番得意だった科目は家庭科。
「家事全般ほぼこなせたっけな」
お母さんが仕事をしてたから、もうこの背の頃、小学四年生には簡単な料理なら自分でしてた。たまに親戚のおじさんおばさんが来てはさばきたての魚を置いていってくれてた。だから、スーパーのお刺身はあまり……なんだって。
「普通だよ。お前が期待してるようなことは何も」
そんなことない。普通でも普通じゃなくても小さな先生のことを想像しただけで、話を聞いただけで、この傷が愛しいって思う。
「初恋、とかは?」
「……そりゃ、あっただろ」
俺の知らない先生を誰かが知っていて、俺のことなんてちっとも知らない先生は誰かのことを想ってた。
「葎とちょうど同じ歳だな。この頃の俺は」
「……うん」
「少し、俺のほうが背が高かったかもな」
「えー? 俺じゃない?」
「いや、お前どんだけ見誤ってんだ」
「俺だってば」
並ぶことのない背比べを記憶だけを頼りに自画自賛を混ぜながら。けど、これってどっちも実物いないから永遠に主張しあってるだけで終わらないんだけど。
終わらないでもいいよ。全然、このまま。
「俺、そんなにちっちゃくないし」
「……」
「先生があの時、大きかったからそう思っただけだよ。俺、背の順だったら」
「葎の初恋は?」
「……」
先生に出会ったのがちょうど、この柱に刻まれた、俺の胸の辺りが頭のてっぺんだった小学四年生の頃。
「俺ね、先生が女の人とデートしてるとこ、見たことある」
「え? いつ?」
いつって、そんなの……。
「俺が中学生の時。ねぇ、鞄買いたぁぁい、って女の人がくねくねしてた」
誰だか思い出した?
ピンヒールで大人で、真っ赤な唇は見てるとお腹の辺りがイガイガしてくるほどに鮮やかで、そして、綺麗な人。
「俺の初恋はその時自覚したけれど」
「……」
「初恋そのものは小学四年生の時」
今はもう全然背比べが勝負にならないね。
「……先生だよ。俺の初恋」
背伸びしないと、口のとこに届かないもん。セックスの時は寝転がってるから、あんまり、ね。気にならないけど。
「ずっとずっと、先生だけだもーん」
複雑なところ。俺の初めてはね、全部先生なんだけど。先生の初めては全部違う人なんだって思うと、ちょっと切ないんだ。仕方ないのにね。そんなとこにこだわるのがもうすでに子どもだってわかってるけど。
でも、まだ帰りたくないって、駄々っ子になりたいくらいにはまだ子どもなんだ。
「さて、帰らないと、だよねっ」
帰ったら、そだ。帰る途中でどっかお土産屋さんに寄ってもらえるかな。シュウにお土産買わなくちゃ。アリバイ作りに協力してくれたお隣さんにも。
「やっぱり、炊飯器ないの不便だな」
「? 先生?」
何? いきなり。
「一人だとあんまり気にならないけど、二人だと、ないと不便だって気が付いた」
「……」
「いつも一人で来てたからな」
「……」
普段の管理は親戚がしてくれてるって言ってた。けれど、長い休みの時は必ず先生が来て掃除から草むしり、色々していくんだって。俺は夏休み、冬休みも、先生がそんなことをしてるってちっとも知らなかったんだ。
「……ぇ? 一人って」
ねぇ、今、一人って言ってた。一人って。
「あぁ、いつもは一人でやってる」
「……」
「初めて、誰かを連れてきたよ」
「!」
それって。
「次は、炊飯ジャー持参するか」
「! ね、ねぇ! 先生!それって!」
耳が真っ赤だよ? ねぇねぇ。先生ってば。
「ほら、帰るぞ」
ねぇ、次はって言ってた。けれど、ここにまた次の休みに一人で来るのならいらないでしょ? だって、一人なら不便さを感じないって言ってたんだから。けれど、次来る時は持参するの? それって。
それって。
「うるさい。帰るぞ」
「!」
怒ってるみたいに。けれど何よりもわかり易いかくれんぼ。
「! ま、待って、先生!」
遠まわし、遠まわし、まるでなぞなぞみたい。
「葎、ほら! 次、またな」
そういって、照れ隠しにキスをする先生の頬はとても赤くて赤くて、小さな子みたいに赤くて、可愛かった。
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