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第43話 名探偵は思う

 どうして?  なんで?  嘘だよね?  先生が、今、ここにいないのは――。 「えー、一組の担任をしていた直江教諭はしばらく休職することになった。しばらく数学に関してはもう一人の数学担当、大坂(おおさか)教諭が代わりを勤める。なーおー、復帰の時期などに関してはまだ未定とのことで、うちのクラスにも選択科目で直江教諭のクラスを受けていた生徒がいるが、あー、そこ静かに」  クラスのざわめきはすごかった。  夏休み明け、突然のことで、この長い一ヶ月と少しの間に何があったんだって、皆がざわつく。 「えー、選択、取ってたものは、同じく、大坂教諭が受け持つことになる」  何があったんだろうねぇ。  夏休み、なんかやばいことしたんじゃない?  うるさい。  生徒と……って聞いたぁ。  マジで? でもありえるかもぉ、やっぱカッコいいじゃん。誘惑されたのかなぁ。  魔が差したとか?  うるさいっ。  つか、理事長の娘どこいった?  キレたんかな。理事長。それ、マジでパワハラじゃん。訴えられんじゃね? 「っ!」  教室から溢れるくらいに憶測の声が止まらない。耳を塞ぎたくて、塞いでないと溢れる心無い酷い噂の数々に溺れて死んでしまいそうになる。  息をするのも忘れて、ずぶずぶと深い深海でもがきながら死んでしまいそう。 「えー、それでは、ホームルームはこれで終わりだ。このまますぐに授業だからなぁ」  担任がホームルームの終了を告げ教室を出きる前に、もうすでに膨らみ始めた噂話が尾びれ背びれ、ありとあらゆるものをネタにしようとくっ付いて、転がって、そこでもまたくっついて、大きな大きな無邪気で陰湿なものばかりを孕んで膨らんでいく。  もう、本当に窒息しそう。  息が、でき――。 「葎、ちょっといいか」 「……ぇ、ぁ」 「わりぃ! ちょっと、借りたい問題集があるんだよ!」  シュウだった。俺の腕をしっかりと掴んで、でも声は楽しげないつもの明るいシュウのまま。  ただ、腕は振り解けないほどの強さだった。 「……平気か?」  もちろん、シュウの用事は問題集なんかじゃない、でしょ? このタイミングだもんね。そして、その問いは、もう、さ。 「うちのクラスでもすげぇ噂になってる。っつうか、噂が広まりすぎじゃね?」 「あの……」 「理事長の娘がどうとか、パワハラがどうとか、生徒とどうなったとか」 「……うちと同じだね」  うちのクラスも全く同じ言葉が飛び交ってた。 「ど、したんだろうねぇ。先生、そんなことする人じゃないのに。良い先生だと思うよ。ほら、うち、弓道の顧問してもらってたし」  声が震えてしまわないようにしないと。 「真面目だったし、勉強根気強く教えてくれてさ」  せめてシュウには誤解されてしまわないように。ちゃんと、あの噂は噂だよって、言い切らないといけない。  ――理事長の娘とさぁ、結婚がっつってたの、蹴ったんでしょ? 「良い先生なのに」  ――うちの生徒となんかあったんじゃないかっつってた。 「なんか、ひどくない? 皆。っていうか、休職なのだって体調不良って、どうしたんだろうね」  ――夏休み、なんかやばいことしたんじゃない? 「きっと本当に体調が悪いんだよ」  ――生徒と……って聞いたぁ。 「ホント、噂話って」 「大丈夫か? 葎」 「……」 「お前も知らなかったんだろ」 「っ」  手が震えてた。  力みすぎてたせいで、力込めすぎて震えてたんだ。気を張ってないと足元から崩れて粉々になるんじゃないかって思えて。 「っ、ちが、俺はっ」 「いいから、大丈夫だよ。俺はお前の親友だろうが」 「っ」 「平気か?」  優しい声だった。シュウが穏やかに優しくそう問いかけてくれて、力んでた手から、脚から力が抜けて、ぽろぽろと崩れていきそうになる。 「っ、シュウっ、ど、しよっ」  でも、シュウが崩れそうになる俺を抱き締めて支えてくれた。 「俺が、先生を」 「違う」 「先生を」 「違う、絶対に」 「先生をっ」 「違うから」  違わない。あの噂は、憶測は全部きっと違わない。だって、一番面白おかしく皆が話してたこと、それは真実だから。  夏休みの間、先生をある生徒が誘惑した。キスをして、セックスをした。 「シュウっ」  その生徒だけはわかってる。 「どうしようっ、シュウ!」  その噂にはちゃんと根拠があって。嘘はないことを。溢れて零れた真実に先生が沈んでいってしまいそうになってることを。 「……授業、始まってるよ、シュウ」 「あぁ、そうだな」  前にもここでシュウと話をしたっけ。あの時はシュウの片想いのことを聞いてたんだ。今度は俺の話をする番になっちゃった。 「シュウ……いつから気が付いてたの? 俺が先生のこと」 「バーカ、最初からだっつうの」  あんなに先生先生って言ってたらそりゃわかるだろって呆れたように笑われた。 「お前、あの弓道の手袋、なんだっけ?」 「カケ?」 「そうそう、それをもらった時とかさ」  大喜び、だったよね。本当に嬉しかったもん。 「ずっと好きだっただろ?」 「うん」  素直に答えるとシュウが笑った。 「先生もずっとお前のこと、好きだったと思うぜ」 「えっ? なんでっ?」  嘘、そんなの、そんなこと、ありえない。 「なんでって、見りゃわかるだろ」 「?」 「しかもけっこうぞっこんだったと思う、けど? 俺と葎が一緒にいるとイヤそうな顔してたし」 「……」 「けど、お互いにくっつく感じはさ、夏休み前にはちっともなかったのに、それがすげぇ急展開。まぁ、そこに何があったかは、俺ももう大人だから聞かないけどさ」  大人って、まだ、俺たちは高校生じゃん。でも、フフンってシュウが自慢気に鼻を鳴らした。 「いいんだよ、俺は葎を応援してて、先生も葎のことを好きだったんだから。あとのことはよくわかんねぇ。けどさ」 「?」 「おかしくね?」  口をへの字にして、うーん、とまるで探偵が何かを考え込むように、首を傾げてる。  おかしい? 何が? 何も、別に。 「噂がさ」 「……」 「休職のことは今日始業式で始めて聞いた.なのに、もうどのクラスでも同じような噂がしっかり流れてる。朝からだぜ?」  まるで、その噂の発生源はたった一つのように感じた。そこから生まれて、そこから四方へと広まっていったようにまったく同じ内容の噂話がたったの一時間足らずで万遍なく広まっていった。  その噂の広がり方はあまりに均一すぎて、不自然なほどだった。

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