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第45話 不幸せな
先生の車に乗って、そこで気が付いた。とてもラフな格好をしていることに。まるで、朝から学校に行くつもりはなかったみたい。
「学校、大騒ぎになってるか?」
「う、ん」
「お前は?」
「え?」
「お前のことも?」
「ううん。俺は別に」
そうか、ならよかった、って、安堵混じりの溜め息をついて、何もセットしていない髪をかき上げる。腕時計すらつけてない。
先生を見ていると今日は休日なのかもと思えてしまうくらい。
「あの、直江、教授って……」
「父親だ」
「えっ?」
「今、話しをしてきたところだった。あの人は朝くらいしかまともに話せる時間がないから」
先生のお父さん? 教授なの? さっき話してた。先輩と、その先生お父さんは繋がりがあるような口ぶりだったけれど。
「俺は、あの学校を辞めることになる」
「! そんなのっ! なんでっ、先生は何もっ」
「いいから、ちゃんと聞け」
「っ」
「地元に戻るよ」
「!」
地元って、地元って、あの海の?
「葎……」
やだ。だって、そんなとこ、すごく遠い。海のある、あそこは遠くて追いかけられないよ。素敵な場所だったけれど、遠すぎる。
「なぁ、葎」
やっぱり、どんなに追いかけても、届かない。どれだけ手を伸ばしたって、先生には。
「好きだ」
「!」
先生にその言葉をもらえて、涙がぽろりと零れ落ちた。なんで、このタイミングに、そんなこと言うの。
「葎が好きだ」
「っ」
「そのせいで、お前が不幸せになっても」
「! なんで、そんなっ、不幸せなわけない、のにっ」
「さっきみたいなことをお前が言われないために、ずっと我慢してたんだけどな」
車が止まった。外から丸見えだけれど、先生は嬉しそうにキスをしてくれた。
「やっぱり、どうしても、好きだよ。お前のこと」
そう言って、とても優しく、キスをしてくれた。
「出来損ないの息子などいらないと、言われたよ」
それはとても酷い言葉のはずなのに、言われたら悲しいはずなのに、先生は笑っていた。
呆れてるのとも、苦笑いでもなく、諦めたとかでもなく、嬉しそうに笑って、初めて先生自身のことを話してくれた。
父は、大学教授をしている。兄も同じ大学教授になるべく道を進んでいる。けれど、先生だけはその道へ進めなかった。進まなかったんじゃない。進めなかった。
出来損ないの息子だから。
それでも、父は自分の理想の息子にしたくて、「教諭」という道に進ませた。
「教師、にはなりたかったんだ。でも、父の影響ではなく、研究職にいた母の影響で。母はたまに地元の小学校へ実験を見せに出向いてた。よくあるだろ? 夏休みの自由研究を兼ねて、科学を身近に、っていうやつだ。俺は子どもにああいうことを教えてやりたかった」
母、お母さん、あの、海辺の一軒家で一緒に住んでいたっていう。
「少し変わった家族だったかもしれない」
ずっと別居状態が続いていた。母はあの海辺にある研究所で仕事をしていて、その研究を続けるためといって、父とは共に暮らさなかった。父も研究ということにはとても寛大だったから、お互い「別居」というものに険悪なものはなかった。
「でも、あれはきっと、俺のためだったんだろう。父が望むものになれない俺を隠すための」
会えば、勉強の話ばかり。もっと勉強しないといけない。もっともっと、今のでは足りない。通信教育でもなんでもいい。家庭教師をつけるのもいいかもしれない。もっと、学んで、人の上に立て。価値ある人間になれ。
「そう言われ続けた俺はあの人が望むような、価値ある人間にはなれそうもなかった」
「……」
「眠れなくなったのは、ちょうど中学の頃だった」
「……え?」
まぁ、ストレスからくる不眠だって、口元に指を置いて笑ってる。片方の手は緊張することなく、まるでデートみたいにハンドルを緩やかに握っていた。
「それで母が、趣味と研究を兼ねて、アロマオイルを作ってくれたんだ」
「……」
「柑橘系と花の香りを混ぜたアロマオイル」
それは、知ってる匂い、だと、思う。
先生の近くにいくとふわりと鼻先を掠めるいい香り。グレープフルーツの爽やかでほろ苦くて甘い優しい匂い。
「母がなくなってからは、自分で作ってた。それがあると良く眠れてさ……いや、逆、かな。そのうち手放せなくなって、それがないと眠れない。そう自分で思ってしまっていた」
もう父から守ってくれるものはない。
「香り一つで安堵できる。弱い人間だ」
「……そんなこと、ない。先生は」
「人に教える仕事はしたかった。父のような教授なんかじゃなくて、もっと小さな子どもに教えたかったんだ」
笑って、走り回って、子どもと共に成長していく教師に。
「父のようにはなれなかったけれど。母を少しでも楽させたい。父の圧力を和らげようと必死だったから、俺は我慢をしないといけないって、言い聞かせ続けてた」
母は愛する人に愛する息子を大事にしてもらいたいと切に願っていた。
父は息子に立派になってもらいたいと、ありとあらゆる方法を試そうとした。
でも、その間に立っていると息ができなくて、眠れなくて、なんで俺は好きなように生きてはいけないのか? そう、全てを放棄してやろうかと思った矢先だった。
「母が急死した」
それは突然のことだった。先々の進路を決める、そんな時だった。自分のなりたいものではダメなのか? 大学教授が偉大で、小学校教諭なんぞ、と言われるものなのか? 俺は――と自分の理想を選ぼうと思った時の出来事だった。
「まるで、ダメなんだよ、と言われてるみたいに」
自分の望みを叶えてはいけないと言われた気がした。父の望みを少しでも叶えてやることで、母は安堵するんだぞ、そう言われた気がしたんだ。――そして選んだのは。
「本当は、小学校の先生になりたかった。だが、進路として選んだのは高校の教諭免許取得に続く道だった」
「……」
「嫌々やろうとしてると伝わるのかもな」
どうしても高校教諭になれず、結果、父の力で、出身校でもあり、父の生業としている教授として身をおく大学へと続く、あの学校へ「教諭」として勤めた。
「産休の代理で入っただろ?」
「……うん」
「そのまま産休期間が終わっても、教師をしてただろ?」
たしかに先生は四月からじゃなかった。無邪気に俺は中途半端な時期に入っていた先生はどこですか? なんて、言ってたっけ。
「でも、教師は教師、やりがいはある。ここでも教えられることはある。父にも感謝している」
「……」
「でも本当は、ただ、諦めただけ」
母を殺したのは、お前のその無駄な抵抗だ。その無駄な足掻きだ。だからもう足掻くな、抗うな。従え。
右を向けと言われたら右を素直に向けばいい。止まれと言われたら止まる。進めと言われたら、指示された方向へ進め。そうすれば父は満足で、母も安心する。
「そう思ってな」
「……」
先生は前へ顔を向けながら、隣に座る俺を見て、目が合う。
「好きだと自覚したのはいつだったかな」
「……」
「忘れた。でも、そこかしこでお前に触れたいと思っては我慢してたのは覚えてる。俺は、もしやヤバいんじゃないのかってな」
「ちょ! 茶化さないでよっ」
急にケラケラ笑ったりして、こっちはすごく真剣に話を聞いてたのに。
「いや、相当悩んだんだ。何しろ、お前といくつ歳が離れてると思ってる? しかも自覚したのはお前が中等の頃だぞ」
さっき忘れたって言ってたのに。中等、そんな頃に? 先生が? 俺を? だって、そんなのちっとも。
「道場で居残ってるお前の、真っ赤になった手首が細くて、簡単に手折れそうで」
――……赤くなってるな。まだ弓道初めたばっかだからな、擦れるんだろ。普通はそのくらいで赤くはならないが。
「満員のバスでお前をかばうようにした時、あれは相当きつかった。うなじが色っぽくて」
「!」
――あっついな。
「あぁ、それと、雨が急に降って、傘を忘れたお前を車に乗せた時」
――車。傘、なくなったんだろ?
「あと、あの時もだ。OBの国塚がやってきた時。ピンと来たんだ。父が寄越した監視役なんだろうって」
「え……」
「そういうことを普通にする人なんだ」
先生が笑った。
「俺が理事長の娘の一件を断った理由を知りたかったんだろ」
「……」
「あの時、父の監視の目を気にするよりも、お前に触れたいと思った。明確に、確かにそう思った」
「……」
「そんな自分が、嬉しくてたまらなかったよ」
あの時、数学準備室でセックス した時、先生はちょっと違ってたっけ。ちょっと強くて、ちょっと痛くて、とてつもなく気持ち良くて、そして、先生が嬉しそうだった。
「他にもあるぞ? お前に触りたいと思った瞬間なら。知りたいか?」
「うん。知りたい」
「本気か?」
うん。本気の本気。先生が俺に触れたいと思ってくれた瞬間なんて、巻き戻せるのなら、全部知りたいよ。
「日が暮れる」
「いいよ」
そんなにあるの? ねぇ、先生。
「不良高校生め」
「うん。だって、悪い子だもん。先生を、脅して、肉体関係を迫るような」
「でも」
「?」
車はそこで停止した。大きなマンションが隣に聳え立つ、駐車場のところ。
「でも、少しはマシになれるぞ。もう、相手の男は教師じゃないから。あとは」
あとは?
「サボり、くらいかな」
「……」
「いけないことは」
じゃあ、これは、大丈夫?
「好き、センセ」
俺からキスをした。運転中はダメだけれど、でも、もう車を止めたら大丈夫だと思うから。身を乗り出して俺からキスを。
さっき、先輩のところから俺をさらってくれた先生がとてもカッコよくて、ずっとずっとキスをしかったから。先生のしてくれる話を邪魔しないように我慢してたけれど、ずっとずっと好きだと言いたかったから。だから、自分から、した。
キスも、スキも、全部。
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