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第46話 直江先生

 先生が呟いた。 『選んでくれ。うちに来たら、お前はきっと不幸になる。恋人は元教師で、男で、年も離れてる。そう歓迎される関係じゃない。このまま、自分のうちへ帰れば、もっと楽しい恋愛ができるだろう。親にだって友人にだって相談できるような、そんな関係がお前を待ってる。だから、今、帰りたいと言ったら、俺はちゃんと送り届けるよ』  やっぱり先生はちっともわかってない。全然わかってないんだ。  だから、トントンって、すぐにでも運転できるようにとハンドルを握っていた手の甲を、指で、突付いた。  俺が算数を間違える度に、間違えたところを先生の長い指が。  ――トントン。  って、してくれたみたいに。  先生、なんで? 不幸なわけないじゃん。先生と、両想いになれるのに。 「……ダンボール」 「あぁ、引っ越すからな」  本当に引っ越すんだ。ここ、せっかく。 「お前がうちに来たの初めてだな」 「……うん」  来たことは一度もなかった。先生とセックスするようになれた夏休みから、会うのは必ず外だった。 「来たいって言わなかったな」 「……うん、だって」  もしかしたら、って、考えそうになることすら、しなかった。ずっとずっと考えないようにしてたことが一つだけある。 「来たいって言ったら、連れて来て、くれた?」 「……いや、ダメと言ってただろうな」  でしょ?  だって、好きでもなんでもない女の人と結婚しないといけなくてって言ってたから。断ったのかどうかはわからなかったから。断って欲しかったけれど、断るのは大変なことだろうし。それに……。 「中学の時に見かけた、先生の恋人、女の人だったもん。それって恋愛対象が女の人ってことでしょ?」  けれど、俺は男だから。  先生は男の俺をずっと好きでいてくれるの? 今だけ? やっぱり結婚してしまうの?   訊きたいことが溢れるから、一つも考えないようにしてた。先生に触れられる、ただそれだけ。その望んだことにだけ目を向けるように。じゃないと、どこまでも自分だけの先生にしたくなるだろうから。 「職員室で先生にかまってもらってる時、よく誰か先生のとこに来てたでしょ? クラスの生徒。すごいヤだった。先生が担任になったクラスの人がいつもすごく妬ましかった」 「……」 「俺の先生じゃないんだって、いつも、羨ましかった」  いつも、先生は俺のになってくれないから、いつまでも、先生は俺のものにはならない気がしたの。  先生が欲しいけれど、絶対に手に入らないから、そう呟いて、ワイシャツを少しだけ引っ張った。 「理事長から娘を、って紹介された。その少し後だ」  その手に先生の大きな手が重なる。 「好きな相手に、誰のものにもならないでと、懇願された」 「……え?」  それって。 「その瞬間、もう繕うのは無理だろうと思った」  それって、それを言ったのって。 「自分を騙して、言い聞かせて、彼女と結婚するのは無理だろうと思った。でも、大事な子だ」  俺が、寝ている先生にお願いしたこと。 「不幸にはしたくないと、その時は思った。我慢しようと思ってた」  大きな手に頬を撫でられて、優しく見つめられて、心臓が張り裂けそうになる。 「我慢するために、誰か他で補おうと思ったんだ」 「……」 「色白で、ショートカットの女性」  俺に似てるって。 「ホテルまで行って、終わり」 「……」 「当たり前だ。お前じゃないんだから、抱きたくなるわけがない」  目を瞑って誤魔化そうとしても、声が違う。触れれば興奮できるだろうかと試したけれど、もっと細い。もっと骨っぽい。もっと、しなやかだ、そう思い知るだけだった。 「全然違うって、呟いて、引っぱたかれたよ」 「……じゃ、ぁ……先生は」  ――お願い、誰のものにもならないで。 「そこに来て、お前の可愛い脅迫だ」 「!」 「我慢、できなかった」  先生は、ずっと。 「魔が差した、ってやつだ。大事な子だと我慢してた、その大事な子に誘惑されて、手を出した」  ずっと俺だけの、先生だったなんて。 「せ、んせっ」  神様はきっと俺のことが大嫌いだと思っていた。だって、三度も好きな人が恋人と歩いているところを見せ付けられたんだ。そんなの嫌われてるとしか思えない。 「大、好き」 「あぁ」  大きく口を開けると、腰を引き寄せながら、先生の舌が入ってくる。しゃぶりつきながら、全身で寄りかかって、首にしがみ付きながら、小さな子どもみたいに舌に吸い付いた。 「ン、んっ」  舌を絡ませ合いながら、唾液を混ぜあって。喉を鳴らしながら、もっと深くて濃いキスを繰り返す。角度を変えながら、息継ぎしながら、深く、深く、セックスと変わらないくらいに濃密なキス。 「センセ?」 「好きだよ」 「……」 「ずっと、お前のことが好きだった」  先生の大きな手が脇腹を撫でて制服のシャツを捲る。その掌が熱くて大きくて震えてしまう。 「ン、ぁ、直江、センセっ」 「……」  ダンボールがたくさん積みあがった中、今朝まで先生が寝ていたベッドの上に押し倒されて、先生のお布団の中へと、キスをしながら沈み込む。  あの匂いがした。  グレープフルーツの甘くて苦い、優しい匂い。 「本当は、夏までにしようと思ってた」  ベッドに寝転がる俺を組み敷いて、低い声が怖いことを呟く。 「夏の間、学校が始まるまでの間だけ、葎を独り占めしようと思った」 「……」 「あそこで終わらせるつもりだったんだ。俺の、生まれ育ったうちで、全部を話して、好きだが、お前のことが何よりも誰よりも大事だからこそ、別れようと」 「!」 「でも、逆だった」  手を掴んでベッドに縫い付けるように拘束してくれた大きな手から解放される。 「手放せないって、痛感しただけだった」 「……」 「あんなにぐっすり眠れたのは子どもの頃以来だよ」 「先生?」  ぐっすり眠れたのはって、じゃあ、それまでは?  ――いや、寝たよ。ずいぶんしっかりと眠れた。  少し、びっくりした顔をしてた。先生はびっくりして、そして微笑んでいたことを思い出す。あれは。 「もうずっと良く眠れなかったのに」  いつもしていたあの匂いはお母さんが作ってくれたアロマオイルって。 「お前を抱き締めてるとあんなに幸福なんだと、痛感しただけだったんだ」  ねぇ、先生。やっぱり不幸になんてならないよ。この恋はそんなところに繋がってない。だって。 「早く、直江先生」 「……」 「俺のこと、めちゃくちゃに抱いて」  だって、俺と先生を繋げたのは、あの香り。先生のお母さんが作ったあの甘くて苦くて優しい香りなんだから。

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