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第49話 だから、悪に手を染めよう

 今、俺は十八。  九年間も大好きだった。  九年間も追いかけてた。その大きな背中にずっと手を伸ばしてた。今、その人に背中から抱き締められてる。素肌を重ねて、この人が中にいた感覚も熱の余韻を感じながら。 「ねぇ、先生……」 「?」  やっと捕まえられたのに、手放すわけないと思わない? 「大好きだよ」 「……」  その手をすり抜けて起き上がった。寝癖、ないかな。もしもあったらバスで変な寝方してたんだって言おうっと。 「だから、帰るね」 「……葎」 「あんまり遅くなると、変だから」  手放さない。この人は俺のだもの。そのためだったらなんだってできるよ? 「辞めちゃうの、いつ?」 「……たぶん、すぐ、だろうな。父親とはもう決別だから」 「……そっか」  知らん振りだってできちゃう。  きっと明日からも先生の噂はたくさん流れる、先輩が作った脚色されたいやらしい噂が飛び交う中を平然と通り過ぎて、しれっとした顔で毎日ちゃんと勉強しないと。  部活の顧問で良い先生でしたよ? 俺にとっては。って、涼しい顔して笑うんだ。 「もう、学校で会えない」 「……どう、かな。手続き次第では、一回くらいは顔を出すかもな」 「そう」  良い先生でしたよって。 「ね、先生」 「……」 「また、会える?」 「あぁ」  ずっと捕まえられない人だと思ってた。手をどんなに伸ばしても届かなくて、指先がようやく掠めたって喜んだ次の瞬間には、貴方はもう前を歩いていってしまう。 「なぁ、葎」 「?」 「あそこは夏、日差しが強いから」 「……」 「帽子、今度買わないとだな」  ずっと、捕まえちゃいけないと思ってた。大切な子、大事な可愛い男の子。そう思えば思うほど、自分の大きな手はその大切な子を握り潰してしまうんじゃないかと怖かった。大事なのに、いくらそっと持っても、持った瞬間、粉々にしてしまうかもしれないと。その子が胸に飛び込んできた時、たまらなく愛しくて、たまらなく怖かった。  粉々にしてでも独り占めしたいと思ってしまったから――。  ねぇ、先生、そう思った? 貴方の抱き方はいつだって激しいのに、どこかおっかなびっくりだったから。 「小麦色の肌をした葎も見てみたいけどな」  笑いながらくれた優しいキスから伝わったものがもしも自惚れでないのなら、ねぇ、ねぇ、そう思ってたって、思うんだけれど。  先生が俺に恋をしているって、感じるんだけど。  けっこう難しいなぁ。田舎の大学、なんて思ってたら大間違えだった。でも、そりゃそうか。先生のお母さんはそこの大学で研究職に就いてたくらいだから。でもよかった、先生が数学の先生で。そのおかげで初等四年からずっとばっちり理数系の脳みそだもん。  また、先生に教えてもらわなくちゃ。  今週末は秋祭りの準備もないもんね。最近ずっと町内会の準備に追われて、先生はすごく忙しそうだったから。  あ、でも、タオルケットとか洗いたい。マットも洗わないとっていうか、車、洗車しないとなんじゃないのかなぁ。  九月の終わりはまだまだ暑いから水浴びついでにいいかも。うん。洗車しよう。楽しそうだもん。 (あ、ねぇねぇっ)  どうしてさ、ヒソヒソ声ってあんなに目立って聞こえるんだろう。 (あれってさ……)  ねぇ、先生。  噂の先生の登場に高等のリボンカラーだったけれど、知らない女子が二人、こっそりと、けれどとても大きなひっそり声で話してる。  あれってさ、生徒と何かあった先生じゃない? 体調不良って言ってるけど、クビ、なんでしょ? そうそう、理事長の娘と二股で。 「……」  二股じゃないよ。先生はたった一人だけしか好きじゃないもの。  その生徒は俺なの。それで、俺が、先生が自分らしく生きることを決意させた恋の相手なんだ。愛されてて、大事にされてて、あと少ししたら、卒業したら、先生の生まれ育った家に俺も引っ越すんだ。今は休みの日にだけ通ってる。時間があれば海まで手を繋いで散歩もするし、料理も一緒に作って、たまにだけれど、お泊りも。  彼が、愛してるのは。 (でもさぁ、めっちゃカッコいいね) (うんうん)  俺だよ。彼に愛されてるのは。 「……」  目が合ったのは一秒にも満たない瞬間。  すぐにお互いに目を逸らして、知らんぷりを決め込むんだ。  ぁ、でも少しだけ、「こら」って怒ってた、かな。だって今日、先生が職員室に来るの知ってたもん。知っててわざとここを通ったの。 「……こんにちは」  そう挨拶をしたかったから。ちょっと悪戯というか、ね。先生にちょっかいをかけたかったっていうか。 「……」  この人は俺のって、胸の内でだけ自慢したかったんだ。 (きゃー、なんか、カッコいいー!)  でしょ? カッコいいでしょ? でも、この人がおおはしゃぎで水遊びするところも、うたた寝顔も、ぐっすり眠った顔も、ヤキモチをする顔も全部全部、ぜーんぶ。  俺の、なの。  俺だけの、先生なの。 「なぁ、今日、直江先生来てたんだって」 「うん、知ってる。あ、シュウ、あの、今度のさ」 「わーかってる。うちで勉強会だろ?」 「うん。ごめんね」 「かまわないよ」  ありがと、ってお礼をすると、フンって鼻を鳴らして、シュウがバスの向こうに視線を投げた。九月も終わりなのに、まだまだ日差しは夏と変わらなくて、眩しくて、シュウは少し退屈そう。もうサッカー部もこの前引退してしまったから。勝ち進んでたんだけどね。まさか前回大会優勝チームと当たるなんてついてない。 「しかし、なんか、変わったな、葎」 「?」 「面の皮が厚くなったっていうか。図太くなったっていうか」 「すっごい悪口なんだけど」 「……悪人になったっていうか」  悪人だもの。まだまだもうちょっとだけ悪人でいるつもりだもの。もう少しだけ、嘘つきでいたいから。親を騙して良い子のフリをして、勉強も頑張るし、無遅刻無欠席の優等生のフリをして、行きたい大学に行くんだ。  通えないところ。  一人暮らしをしないといけないところ。けれど、理数系でもっと学びたいからそこにした。もっともっと知識を深めるためにはそこしかない。そういうことにして、あの人のところへ行くんだ。  だから、もうしばらくは嘘つきの悪人でいるつもり。  この恋の邪魔を誰にもさせないために。 「……あと、少し、日焼けした?」 「……うん。ちょっとだけね」  だってね。 「ほんのちょっとだけ、だけどね」  先生が見てみたいっていうから。日焼けの痕が残る、俺のこと。だから、ちょっとだけ、ね。  先生が秋祭りの準備で日中いない間に外で日焼けできないかなぁって。夜に見せられないかなぁって。けれど、珍しく日焼けした肌はヒリヒリして痛くて、大失敗。  バカだなって笑うあの人に、だって、ってぼやいて俺も笑ってた。  だから今度はお泊りがいいなぁって。もうヒリヒリしてない日焼けした素肌を先生に、見せびらかしたいなぁって、思うんだ。 「夏、終わっちゃったね」  そして、あの人がどんな顔をするかなぁって、思いながら見上げた空は夏の日差しみたいに眩しいけれど、秋の空気でさらりと心地良かった。

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