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クリスマス編 6 恋を知っている。欲を持っている。
先生の車に乗ったことは何度かある。
先生の近くに行くと感じる、あの爽やかでグレープフルーツのほろ苦く甘い香りに包まれる感じ。
それは俺にとってとてつもなく特別な空間で、最高に幸せな時間で、たまらなく切なかった。
せつな過ぎて、胸の内が騒がしくて、車酔いなんてしたことなかったっけ。
「なんだ、お前、初等科はもう下校時間とっくに終わってるだろ?」
あと五分、もしも先生が後五分経っても、ここに現れなかったら、諦めよう。
「うん……あの、鍵盤ハーモニカ、持って帰るの忘れちゃって」
「……」
「も、戻ってきたの」
あと五分、それを十三回繰り返したところで、先生が下駄箱にやってきた。
職員室のね、近くにある先生たちが使う、色んな人用の下駄箱がある階段の上に音楽室があるから、ここでこれ持ってたら、変じゃないかなって。
「バス、何分なんだ」
「あ、えっと……」
ランドセルの手前のポケット、そこにキーチェーンでぶら下がっているバスの時刻表を見た。背負ってるランドセルを下ろして、カバーを開けて、時刻表を見る。カッコいい大人の先生にはじれったいだろうその時間を邪魔っ気になってしまわないように、できるだけ急いでバスの時刻表を見た。
トロイ生徒だ、って嫌われたくないから。
「あ……」
これはわざとじゃないよ? 本当の、本当に知らなかったの。
「あと、三十分、来ない、みたい」
バス、行っちゃったばかりだった。ちょっとでよかったんだ。ほんのちょっとだけでよかったの。今日は少し悲しいことがあったから、先生が絆創膏貼ってくれたけれど、それだけじゃ少しまだ元気になれなかったからね、だから、言いたかっただけなの。
本当だよ?
「さ、さようなら。僕、大丈夫! バスで帰れる、ので、さようならっ」
さようならって挨拶して顔見てから帰りたかっただけなの。
「ほら、葎」
「わっ、わわっ」
掴まれたのはランドセル。上の、首根っこみたいなとこを捕まれて、前に進みたかった足がつるりと滑って転ぶかと思った。
転ばなかったのは、先生がランドセルごと掴んでいてくれたから。でも、僕が持っていた鍵盤ハーモニカはそのまま吹っ飛ぶ勢いで下駄箱から、ぽいっとその場に落っこちた。
「ご、ごめんなさい」
「いや、俺も悪い。壊れてないか?」
「ん……たぶん」
「……」
顔見てから帰りたかっただけなのに、ケースが空いて中身が飛び出してしまった鍵盤ハーモニカを一緒に片付けてくれる先生のどアップが見れてしまった。
ラッキー。
なんて思っちゃうくらい近いの。だって、カッコいいんだもの。
「拾い忘れてるものは?」
「た、たぶん大丈夫」
「……なら、行くぞ」
「え?」
「バス、三十分もないんだろ? 仕方がないから」
「!」
顔を見たかっただけなの。先生といるとドキドキして忙しいのだけれど、でもとっても元気になれるし、嬉しい気持ちになれるから、だから、落ち込んでしまって泣いてしまった今日は顔をたくさん見て元気になりたかっただけなの。
「えー! やだってば」
「壊れてるかわからないだろ? 弾いてみないと」
「家でやるってば!」
「壊れてたら俺が弁償するようだろうが」
「いいって、そんなの、先生のせいじゃないもん」
「そういう問題じゃない。ほら、早く、鍵盤ハーモニカ」
なにそれ、何、それ。変なの。へんてこなの。
「ほら」
もう、変なのに。
「わ、わかったってば。僕、あんまり音楽上手じゃないからねっ」
「はいはい」
「んもー!」
今日は同級生に意地悪をされたから、先生のこのグレープフルーツみたいな匂いにドキドキして、先生の笑った顔にふわふわになりたかったんだ。
「…………お前、顔に似合わず、本当に音楽下手だな」
「んもおおおおお!」
ここは、とてつもなく特別な空間で、最高に幸せな時間で、たまらなく切なかった。
「ずいぶんご機嫌だな」
「だって、先生がお迎えに来てくれるなんて思わなかったんだもん」
「……」
「お仕事帰りのまま来てくれた」
シャツにネクタイ、後ろの座席には朝、家を出る時に着ていたブラウンカラーのコートが放ってある。
「ご機嫌になっちゃうよ」
「……どうだった? OB会」
「話してきたよー。けど、大半はそのまま大学に上がっていくのを希望してる子ばかりだから」
「……それ以外は?」
恋を知ったから、欲を知ったから、わかる。
「渡瀬葎! ……って、怖い顔をした同級生に呼び止められた」
「……」
「俺が一度大嫌いって言っちゃった同級生」
「……それで?」
「OB会の後は? って訊くから、帰るよって」
独占欲がどんなものかも、今の俺はわかるんだ。あの頃、二年生だった俺にはなかった恋も欲も知っていて、三年生の俺は知らなかった、独り占めできることの幸福も知っている俺にはわかるんだ。
「さようならって帰って来たよ? 先生は? 冬休み前で、今日も学校忙しかったでしょ?」
うちからここまで車で、しかも土曜じゃ、少し混雑してたんじゃない? 渋滞とかあったと思うのに。
「仕事してて、思い出した」
「……」
「OB会のあとは毎回、打ち上げがあったなって」
もうわかるの。貴方の瞳の中に混じる、それがどんな感情から来てるのか、今はもうわかる。
「悪い虫がつかないようにと、慌てて仕事を片付けて来た」
ほら、やっぱり土曜は道が混んでる。学校からうちへ、駅は通らずそのまま最短で進むのだけれど、段々と車が増えていく。道が混んでいく。
「とりあえず、お前がご機嫌で、多少、胸がざわつく、かな」
「……」
道が混んで止まる。車が止まる。
「先生……」
ね? 止まった。
だから俺は手を伸ばして、貴方の瞳の奥にふわりと立ち込める熱を直に口移ししてもらいたくて、唇を開いて、舌を挿れさせてもらった。
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