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第3話
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安 堂
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春川ちゃんがキラキラとした笑顔を残してゲストルームへ走って行く。冷水 にラムレーズンを食べさせたい一心で。
その細い背中に向かって、咲伯 が呟いた。
「おもしろくない。」
冷水がちらりと咲伯を見る。
咲伯は眉間にしわをよせ、チノのポケットに親指を突っ込んで、背もたれに沈みこむようにして中庭を睨んでいる。
あんたらしくない顔。あんた、能天気の楽天家なはずでしょう?
あたしは思い出していた。昨日の、ボロボロになった咲伯の笑顔。
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お風呂から上がって冷えた炭酸水を取りにリビングへ行くと、冷水と春川ちゃんが窓辺に座ってお勉強中。
お勉強ならダイニングテーブルのほうが向いていると思うのだけれど、春川ちゃんは、あそこは食事をするためのテーブルだという妙なこだわりを持っていて、咲伯の実家で勉強をするときはたいがい三人掛けソファの真ん中に座り、テーブルやソファに教材を広げ、低いローテーブルに向かって鉛筆を走らせる。
そういえば昔、春川ちゃんはソファやベッドが苦手だと言っていた。今は平気になったみたい。
冷水は、テーブルを挟んだ向かいにある一人用のソファで、春川ちゃんの先生役。
最近の冷水は春川ちゃんに付きっきりで外国語の勉強をさせている。
ワインソムリエの資格を取らせたいみたいだけれど、日本でソムリエ資格を取るだけならそこまで語学力を磨く必要はない。将来的には国際基準のソムリエ資格を取らせたいから、と冷水は言う。でも、その意思の裏には咲伯への不満が見え隠れしていることは明白。
咲伯の発言がよほど許せなかったのだろう。
―― 『ぼく、春川のパトロンになる!』
春川ちゃんの美大の卒業制作を見てきた咲伯が言い放ったひとこと。
あれで冷水は激昂した。
―― 『またいい加減なことを!』
―― 『いい加減じゃない、ぼくは本気だよ。春川が絵を描きつづけられる環境を整えてあげるんだ。』
―― 『…あなたの思い付きでこれ以上春川を振り回すことは許しません。』
このときの二人の真剣なやりとりを、展示会の打上げに出ていた春川ちゃんは知らない。
咲伯は言い出したら聞かないから、冷水なりに考えて、仮に春川ちゃんが咲伯に放り出されたとしても大丈夫なように生きる術を身につけさせておきたいのだろう。
…いえ、手元に置いておく術、と言った方がいいかもしれない。
春川ちゃんを自分の側に置いておくための名目を作っておきたいのだ。自分の右腕である、という名目を。
なにしろ冷水は、春川ちゃんと巡り会ってから春川ちゃんのことばかりをずっと想いつづけている。
見守り続けてあげたい、大切な存在。(それを一目惚れだとあたしや咲伯が言うたびに冷水は全力で否定してくるけれど。)
春川ちゃんはすごい。
咲伯の人形みたいだった冷水に、どんどん新しい魂を吹き込んでくれる。
怒りや、悲しみ。そして、喜び。
感情をまったく表に出さなかった冷水が、春川ちゃんのおかげで徐々に、でも確実に人間味を増して、魅力的な人格を形成しつつある。
それを思うと、冷水のためにも咲伯が春川ちゃんを手放すことは考えにくいのだけれど、冷水は信用がないみたい。
残念ね。
冷水も見ればよかったのよ。春川ちゃん作品を。
春川ちゃんの卒業制作は、他の学生のものに比べてもそんなに大きくもなく、一見すると目立たない感じの、控えめな色彩をした油彩絵だった。
実は春川ちゃんは、卒業制作にはもっと大きなキャンバスに描いた別の作品を用意していた。でも、完成間近になって、自らその絵にナイフを入れて駄目にしてしまったのだ。
そのときの絵もお願いして見せてもらったけれど、とても力強い、素敵な作品だった。
簡単に言うと、男の人が背中を水面に叩きつけている様子を写実的に描いた絵。
だけど始めのうちは男の人には気づかない。大輪の花が、わっ、と水面に散っているようにしか見えないから。
でも、水しぶきが高く上がっている部分をたどっていくと、やがてそれが体に大きな花のボディペイントを施した男性の上半身なのだとわかる。花に紛れて気づきにくいけれど、目や、ほんのりとほほ笑んだ口元が、水の中にゆらりと浮かび上がってくる仕組み。
水しぶきにも花びらが散っていて、あたしは絵画のことはよくわからないのだけれど、鮮烈な美しさが驚きと同時に脳裏に一瞬で刻み込まれる感覚を覚えた。
ナイフのせいで画面は無残にも斜めに引き裂かれていたけれど、その時点で九割方は完成していたのだと思う。
『すごいわよ、これ!あたしのお部屋に飾りたいくらいだわ!』
『……ちがうんです、何かが……。…俺も、こいつのことはとても好きだったんですが……これが、自分の集大成ではない気がして…』
興奮しきりな私の横で、春川ちゃんは泣きそうだった。
『…ちがうと思ったらもう描けなくなって…ヤケを起こして… ……コロしてしまった… …。』
あまりに辛そうに言うものだから、あたしは小さくなった春川ちゃんの肩を抱いて慰めることくらいしか出来なかった。10月も半ばを過ぎたころだった。
春川ちゃんはそれからしばらくのあいだすっかりふさぎこんでしまって、冷水の作った料理も喉に通らない有様だった。
それでも咲伯とあたしは無駄に騒いだりしないで、なるべく普段通りに振舞っていたのだけれど、冷水のショックは大きかったみたい。
なにしろそうなる前の春川ちゃんは、冷水の出した料理をどれも『おいしい、おいしい』とうれしそうに連呼しながら、ペロリと完食してしまうようなコだったから。それが、何口か口をつけては箸を持ったまま呆けてしまったり、完食できずに申し訳なさそうにごちそうさまをする。確かにそんな春川ちゃんはあたしも初めて見た。
春川ちゃんが制作に集中できるようにと冷水なりに考えたのか、冷水は突然バイトのシフトを大幅に変更したりして、そのぶん咲伯がこき使われ、だけど全然使えないものだから結局あたしまでウェイター役として駆り出されたりするはめになった。
冷水は食事面にも気を遣い、栄養価が高くて消化にいいものを用意して春川ちゃんに食べさせたがったけれど、冷水の気遣いに春川ちゃんのほうが気を遣って必死に食べようとしたりして、見ていられないこともあった。
いつかなんて、とうとう冷水のほうから途中でストップをかけてしまった。
『食べたくないのなら無理して食べなくてもけっこうです。』(冷水!あんた、言い方!)
それまで無理矢理な笑顔を作って口のなかへ料理を運んでいた春川ちゃんは、冷水の不器用すぎる一言にとたんに顔をひきつらせ、下を向いて…そしてついに、泣き出してしまった。
『……ごめんなさい……食べたいんです……けど……』
消え入りそうな春川ちゃんを目の前にしたときの、あのときの冷水の顔。ほんと、悪いとは思うんだけれど…超魅力的だった。
《やっちまった――!!》
顔中、いや身体中の血流が絶たれたかのように血の気が失せ、棒立ちのまま固まってしまった。もちろん表情には出てなかったけれど、あたしと咲伯にはわかった。
見てはいけないものを見たような後ろめたさと、またもや初めて見る冷水の反応が可愛らしすぎて、咲伯とあたしは思わず一緒に固まってしまった。
あのあと咲伯が春川ちゃんを部屋まで送っていって、冷水は何事も無かったかのように片付けをしはじめた。ところが、片付けが終わったあと冷水は…キッチンの奥で、体育座りをしたまま何時間も…動かなくなった。
あたしと咲伯が何を言っても聞こえていないふうで、それはもう……魅力的だった。(ごめんなさいね冷水。)
それからしばらくして、11月も終わりに近づいたある夜、春川ちゃんは清々しい顔で咲伯の家に現れてこう言った。
『出来ました!あとは、乾くのを待って提出するだけです!…お腹すいた!』
カフェが休みの日だったからお店の上にある咲伯宅のリビングのソファに座ってテレビゲームに興じていた咲伯とあたしはおめでとうを言いたくて声の方をすぐに振り向き、そしてあたしは冷水を見た。
冷水はオープンキッチンの向こうで頬を赤くして、うれしそうに春川ちゃんを見ていた。が、
『春川、ひどい臭いです。』(ああ…冷水…!)
確かに春川ちゃんからは油絵特有の臭いが漂っていて、黒のスウェットも絵の具であちこち汚れてしまい、手も青黒くなっていた。けれど。
(ああ…あんたまた、やっちまったわよ冷水…!)
ところが春川ちゃんは冷水を見てうれしそうに顔をほころばせ、
『はい!手だけ簡単に洗って来ちゃいました、ごめんなさい!冷水さんに完成を知らせたくて…スグ、シャワーを浴びて着替えて来ます!』
…と言って踵を返すと、隣の自分のお家へと走って帰って行った。
冷水の耳が少しずつ赤みを増していくのを座って眺めていると、なんだかまたとても嬉しくなってきて、あたしはすぐに咲伯を見た。言葉にできない可愛らしさを共有したくて。
ところが、咲伯の表情は思っていたものと少しちがっていた。
あたしと目を合わせて笑ってくれることを期待していたのに、なに、その憮然とした顔。
気になったあたしはスマホを手にして文字を打ち、咲伯に見せた。
《なによ、その顔。うれしくないの?》
咲伯は、ふざけたように下唇をへの字に曲げて『うえー』という顔を作ってみせたけれど、わたしのスマホを取り上げて文字を重ねた。
《なによ、その顔。うれしくないの? うれしいけど、ぼくは前の絵の方が好きだった。》
あんた!
《よばいしてたのね!春川ちゃんがあんな状態だったのに、さいてー》
咲伯は困った風に首の後ろへ手を回して、少しだけ冷水をうかがい、冷水がキッチンで夕食の準備に集中し始めたことを確認すると返事をよこした。
《春川が心配だったから。別のことを考えてもらいたかった。》
あたしがまだ非難の目を向けているのを無視して咲伯はつづけた。
先日、春川ちゃんの部屋に忍び込んだ咲伯が見たのは、部屋の中央に配置したキャンバスの前に立つ春川ちゃんの姿だった。
殺風景な部屋の壁と床は透明なビニールシート(大きなゴミ袋を何枚も割いてガムテで繋げたもの)で覆われていて、その真ん中で、大きなヘッドホンで何かの音楽を聴きながら立ちすくむ春川ちゃんの背中はやけに殺気立って見えて、少し異様だったという。
もっと異様だったのは、春川ちゃんの目の前にあるキャンバスが真っ黒に塗りつぶされていたということ。
《前に駄目にしてしまった絵は、色彩豊かでとても好きだと思っていたから。 結局、声をかけられないまま帰っちゃった。 あれが新作の土台なのかな。 ぼくは、あれでいいのか少し不安だ。》
春川ちゃんは自分が描いた絵を進んであたしたちに見せることはしない。(ナイフを入れた前作だって、無理やり見せてもらわなかったら知らないうちに処分されていたのだ。)
出来あがった絵は乾燥するまで部屋で保管するとのことだったけれど、春川ちゃんのことだから咲伯にも見つからない場所に隠してしまっているに違いなかった。
だからあたしと咲伯は、春川ちゃんが正解と考えた卒業制作を実際に会場へ見に行くことにした。嫌がるだろうから、春川ちゃんには内緒で。
冷水にも声をかけたけれど、春川ちゃんが不在の間に整理できなくなった雑多な業務を片付けなければいけないとのことで、『この無能どもが』という恨みを込めた冷たい視線をあたしたちに投げつけてきたので早々に退散した。(卒業制作が出来上がってからも展示の準備やなにやらで春川ちゃんの多忙はつづいていたのだ。)
行って良かった。
春川ちゃんの作品は素晴らしかった。
咲伯が見た時点ではまだ黒一色だったキャンバスは、白い木がうっすらとそびえる夜の光景へと変化していた。
画面の上半分はほとんど真っ黒で、下の方に、柔らかな月光に浮かび上がる木の枝が、そこだけ光にくり抜かれたようにそっと描かれている。
木の表面がうっすらと光り輝いている様子は、春川ちゃんお得意の写実的でしっかりとしたタッチ。
森の一部分だけを切り取ったかのようなそれが咲伯の実家の中庭にある白樺だということにはすぐに気づいた。
ふと、分かれた枝の中央にもやもやとした白いものが見えるので次はそこへ目が行く。
目を凝らさないと見落としそうなほどの強さで描かれたそれは、白樺の新芽。
わずかに加えられた緑色と、白と黄色だけで描き出された新芽を眺めていたら、次の瞬間、不思議なことが起こった。
まるで、黒色のキャンバスの照度がぐっと上がったように、ぼんやりとしていた木の幹全体が鮮明に浮かび上がり、暗かった夜の森に光がさあっと射しこんだかのような錯覚に陥ったのだ。
黒一色だと思っていた部分にも細かな濃淡があって、凛とした空気を丁寧になぞるような、夜の大気の質感までもが表現されていることがわかった。
ライティングの効果なのかも。
でも、すごい。確かにこれは、春川ちゃんが集大成だと胸を張って言えるものだわ。
春川ちゃんの作品を探しがてら他の生徒さんの作品もいくつか見たけれど、あたしはこの作品が断然好きだと思った。春川ちゃんの作品と言われなくてもきっと好きだと思ったし、感動していたと思う。
他の生徒さんたちの作品と比較するとけして大きくはないし色味の派手さも無いけれど、吸い込まれるような黒の強さに引き寄せられるように、その絵の前で立ち止まる人は多かった。
そうよ。たくさんの人に見てもらいたいわ!そう思ってあたしは次の作品へ横滑りに移動した。
ところが咲伯が付いて来ない。
咲伯は春川ちゃんの作品の前で突っ立ったまま動かなくなってしまった。
そっと表情をうかがってみたけれど、そこからは興奮や感動といった感情は見いだせず、ただじっと作品を見つめている。
あたしが他のフロアの作品をあらかた眺めて、一周して春川ちゃんの作品へ戻る頃にも、咲伯はまだそこにいた。
少し離れたところからじっと、いつまでも春川ちゃんの作品だけを眺めていた。
帰りのタクシーの中でもしばらく無言だったけれど、やがて口を開いた。
『安堂、気づいた?』
『なに?』
『あれさ…、…冷水だよね。』
そう言ったあとで、顔をひどく歪ませた。
とても悔しそうだった。
それから家に帰って冷水に宣言したのだ。『春川のパトロンになる』と。
冷水は咲伯の真意がわからずに激昂していたけれど、あたしは思った。
咲伯はきっと、春川ちゃんに自分を描いてもらいたかったのだ。ナイフを入れた水しぶきの中の男性は、咲伯に少し似ていたと思う。
それを破り捨てて、春川ちゃんが次に描いた冷水の絵は素晴らしかった。だからこそ、咲伯の中に今までなかった感情が突如として芽吹いたのだ。
たぶん、咲伯がこれまでに抱いたことのない感情。
それは、嫉妬、という感情。
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