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第4話

…というわけで、そんな咲伯の心情を知る由もない冷水は『春川ちゃん磨き』にご執心。  卒業制作が終わって時間ができたぶん、本格的に資格取得のための勉強を始めると言い出した冷水の提案を春川ちゃんも素直に受け入れた。  冷水は楽しそう。表情や言動には出さないけれどあたしにはわかる。春川ちゃんが、冷水が教えたことをスルスルと覚えて自分のものにしていくことがたまらなく嬉しいみたい。春川ちゃんの利発さに喜んでいる。  春川ちゃんも冷水の期待に応えたいみたい。冷水から「正解」をもらったときの幸せそうな顔。  以前の冷水は春川ちゃんに近づくことすら出来なかった。なんだかよくわからないけれど、自分は春川ちゃんを汚す存在だと思い込んでいたみたい。  その『逆潔癖症』は、春川ちゃんがカフェで働くようになってからは徐々に緩和されてゆき、今や、春川ちゃんの先生としてすぐそばで勉強を見てあげられるほどに平癒されてきている。もちろん直接触ったりはしないけれど、かなりの改善が見受けられる。  春川ちゃんの気配りもかなり良い影響をもたらしているといえるだろう。冷水のそういう面を理解して、ある程度の距離を置いてあげている。自覚はないのかもしれないけれど。  春川ちゃんは、少し不器用だけれど本当に頭の良い、いい子なのだ。  幸せそうな二人をいつまでも眺めていたいけれど、お邪魔しちゃ悪いので、 「おやすみなさい。」 「おやすみなさい!安堂さん。」 「おやすみ。」  リビングを抜けて向かいの棟にある自分用のゲストルームへ帰ることにする。  冷蔵庫にあった本日のデザート、ナッツ入りショコラタルトの残り物を拝借し、部屋で赤ワインを楽しむつもり…だった。  渡り廊下の窓から、2階にある咲伯の部屋のカーテンが開いているのが見えた。ぼんやりとした明かりも確認できる。  まだ起きている。しかも、カーテンが開いている、ということは、あの窓から春川ちゃんたちの様子をこっそりと覗き見している。 (咲伯も楽しんでいるのね。ズルイ、一人で。)  そう考えたあたしはゲストルームから赤ワインを持ち出して小脇に抱え、忍び足で2階へと向かった。  ドアをそっとノックしてみたけれど返事はない。  寝ているのかしら。ドアを開けると、「許可してないよー」という呟きめいた声が聞こえたので、遠慮なく入らせてもらう。 「なによ。ひとりでお楽しみなんでしょ?あたしも混ぜて♡」  言いながらドアを閉め、 「ワイングラス貸してちょうだい。」  窓際に腰掛けている咲伯を振り返ってみたけれど、咲伯は窓の外を見たまま動かない。  白いシャツ一枚にカーキ色のカーゴ。背もたれにもたれて、左足を折り曲げて椅子の上に乗せ、両手指を絡めて長い脚を抱え込んでいた。右足はだらりと伸ばしたまま、左側、窓の外のほうへ顔を向けている。  窓の縁には氷入りのグラス。椅子の側にサイドテーブルを持ってきていて、バーボンのボトルと、トングの刺さったアイスペールが置かれてあった。バーボンは咲伯の部屋の飾り棚に何種類か置いてあるうちのひとつ。  ベッドサイドの灯りをひとつ付けただけの部屋はとても薄暗くて、そのせいか、窓辺に座る咲伯の輪郭はひどくあいまいで、心許なく見えた。 「…眠るところだった?」  ううん。その様子だと、 「まだしばらく起きてるんでしょう?」  咲伯の影がかすかに動いた。 「ん、いや、寝るよ。おやすみ。」  窓の縁に置いていたグラスから、カラ、と小さな音がした。 「…一人で飲んでるの?珍しい。」  もっと珍しいのは、咲伯から感じられる“ひとりにして”オーラ。小さく揺れる影。笑ったみたい。 「まあね。おやすみ。」  また言われた。  なによ。気になるじゃない。あたしはあんたのお抱え医師よ。  咲伯の言葉を無視して窓辺に近づき、タルトの乗ったお皿と、ワインのボトルと炭酸水をテーブルの上に乗せた。  白樺の枝がちょっと邪魔しているけれど、明るい光に包まれたリビングの二人の様子は確かにここからよく見える。  ローテーブルに屈みこむようにして何かを必死に書き留めている春川ちゃん。  立ったままの冷水は壁面ガラスを背にしていて背中しか見えない。手元の本を朗読しているふうだった。 「ちょっとあんた、飲み過ぎよ。」  WOODFORD RESERVEと表示された透明な瓶の中のバーボンは半分近く減っている。蓋の残骸からして今日開封したものだ。  咲伯は、観念した、というようにため息を付いてあたしを見上げた。 …こわれそうな顔。 「…泣いてんの?」 「泣いてないよ。」  咲伯はまたゆっくりと窓を向き直った。  長いまつげが二人を追うように動きはじめる。 (泣きたいんだけどね。)  声が聞こえてきそう。 …それで、お酒。  窓の向こうで春川ちゃんが顔を上げた。笑っている。  立ったままの冷水にノートを指さし、何かを言った。 「…らしくないわね。」 「悪かったよね。」 「不健康よ。」 「いいからもう寝なよ、安堂。」  そんなわけにいくもんですか。  少し下がって咲伯のベッドに腰掛けた。「なんで座んのー」咲伯が笑ってこっちを見る。いつもの、溶けたバターのようなきらきらした笑顔とは少しちがう。 「らしくない。」  もう一度言うと、咲伯は何も言わずに窓枠のグラスをとり、残っていたお酒をカラカラと空けて、窓枠へ戻した。  ボトルへ手を伸ばす。たしなめようとして、 「ハルとさあ、」  咲伯が口を開いた。バーボンをグラスに注いで、ボトルに栓をしながら、再び窓の外を見る。 「冷水がね、くっついたらうれしいと思ってた。サイボーグみたいに冷え切っていた冷水の心がどんどんあったかくなっていって、…笑うんだ、最近。春川の前で。」  ほらね、と窓の外を眺めたまま咲伯が言う。そこからでは冷水の顔まで見えないでしょう? 「…春川ちゃんのせいで、あんたの知ってる冷水がいなくなることが怖い?」  咲伯はだまった。  目を伏せ、ゆっくりと顎を引いてうつむいていく。 「…最近、気づいた…」  独り言のように言う。 「……ぼくのものだと思っていたから。……でも、本当は、そう思っていたかったんだ……」  咲伯は、はっとしたように顔を上げてあたしを見た。  そして、 「ははっ」 と笑った。 「ぼく、ハルのおじさんが言ってたのと同じこと言っ、」  言い終わらないうちに、咲伯の笑顔は不意に張り裂けてこわれた。  凍り付いた笑顔の先で瞳が震え、それはついに小さな雫となってあふれでた。 「………っ」  頬につたう幾つもの涙。  脆い笑顔はついに完全に砕け落ちて、散乱した破片を探すかのように咲伯はおろおろと視線を下に彷徨わせはじめた。  溢れ出した自分の感情をどう収拾すればいいのかわからずに取り乱しているのだ。こんな咲伯を、私はこれまで見たことがあっただろうか。  咲伯は肩を震わせて泣き始めた。  そしてあたしを見上げ、次々とこぼれる涙を拭うこともせずに嗚咽交じりで言った。 「ハルが、…ぼくから離れてく」  能天気な太陽が突然湧き出した暗雲の中に突っ込んでかすんで彷徨う。  そんな様子を見ていられなくて、あたしは咲伯の元へ向かい咲伯の頭を両腕で抱え込んだ。  屈んだ胸の中で咲伯の頭が激しく震える。  咲伯の手から離れたボトルが床で鈍い音を立てた。 「……ぼく、ばかだよね、いまごろこんな……」 「…知っていたわよ。大馬鹿者よ、あんたは。」  春川ちゃんと冷水をくっつけたがっていたのはあんたのほうでしょう?  今まで散々春川ちゃんの心を弄んでおいて。  でも咲伯にはその自覚がなかった。  だからこそ出来てしまっていた。  自分の、春川ちゃんに対する想いに、無自覚でいたからこそ出来たのだ。  小さくなった咲伯の肩をさすりながら、柔らかな髪に口を付けて頰をうずめる。 「………ふふっ」  咲伯が軽く笑ったので腕を緩めると、咲伯はあたしを見て真っ赤な目でほほ笑んだ。 「…やっと、泣けた。」  あたしの腕からすり抜け、床に落ちたボトルを拾うと、テーブルの上に置きなおして、白いシャツの片袖で乱暴に顔をこすってみせた。 「あー…。ははっ。あー、びっくりした。タオル取って安堂。」  鏡台のついたチェストからタオルを取って来て咲伯に渡すと、咲伯はもう落ち着いたふうで、あたしに向かって「ありがとう」と言った。  ゴシゴシと顔を拭く。いつもの、バターみたいな笑顔に戻っている、ように見える。 「…飲み過ぎよ。寝なさい。」 「やっと泣けたから、もう少し起きてる。…」  唇がかすかに震えて、 「出てくとき灯り落としてもらっていい?」  にこりと笑って気持ちを濁す。あたしの前で泣くのは計算外だったのだろう。 「つづける気ならこの炭酸で割りなさい。」 「タルトもくれる?」 「駄目。これはあたしのおつまみ。」 「ははっ」  あたしはもう一度咲伯の髪にキスをした。 「おやすみなさい。」 「おやすみ。」  去り際に、窓の外を見たままの咲伯から「ありがと、安堂」と小さく言われた。 *.:・.。**.:・.。**.:・.。**.:・.。**.:・.。 「やっぱりおもしろくない。」  咲伯はむくれたまま、もう一度中庭に向かって言った。 「ハルは、ぼくを好きだったはずなんだ。それなのにぼくが追いかけようとした途端に掴まえられなくなるなんて、ズルイ。」  中庭じゃなくて、冷水に言っている。堂々と。  冷水は、静かに動いて後ろからあたしにお茶を差し出した。 「聞いてんの冷水―。」  冷水は答えず、黙ったまま咲伯の前にもお茶を置くと、少し下がって咲伯とあたしの間に立った。  壁面ガラスに反射する冷水は、まったく動じていないように見える。  淹れたてのお茶を咲伯が一口飲むまでじっとしていたけれど、咲伯がお湯呑みを机に置いたとき、まっすぐに前を向いたまま口を開いた。 「おもしろくないのなら、どうしますか。春川を解雇しますか?」 「しないよ。そんなこと。」 「どちらでも構いませんが。」  風が吹いたのか、芽吹き始めたばかりの白樺の葉が少し揺れた。 「春川は私のものです。」  あたしは思わず振り向いて冷水を見た。  咲伯は相変わらずじっと前を見ている。  冷水はゆっくりと咲伯を見た。 「…負けませんよ。」  そして、口の端をかすかに持ち上げた。  咲伯は中庭を見たまま、肩を揺らして軽く笑った。 「ハルにさわれもしないくせに。」  冷水はまた前を見た。表情は変わらない。余裕すらうかがえる。 「今回ばかりは、私も本気を出させていただきます。」 …ちょっと。  なんなの、このふたり。  そのとき、こちらへ駆け足で向かってくる靴音が聞こえ始めた。 「冷水さんっ、これです!」  廊下の壁から、きちんと身なりを整えたらしい春川ちゃんが現れる。 …何も知らない、この騒ぎの張本人が。  ブルゾンを着てリュックを背負って、外出する準備も万端。  ガラスに反射した後ろ頭には寝ぐせがまだ残っている。  両腕で小さなガラス瓶をいくつか抱えていた。ラムレーズンが入っているみたい。  大事そうにして、ぴかぴかの笑顔でこっちへ向かってやってくる。  テーブルの前まで来ると、いったん瓶を置いて、並べ始めた。 「ラム酒や砂糖の配合を少しずつ変えてみたんです。ラム酒も、どれがいいのかわからなくて、何種類か試してみたんですけど…」  小瓶にはそれぞれラベルが貼ってある。 「ハル。」 「あ、ハイ!」  咲伯の声に笑顔を向ける。 「だーめ。誕生日に働いちゃだめ。パトロン命令。」  春川ちゃんは少し驚いた顔をして、でも嬉しそうに笑った。 「はは、店長、あれ、酔っ払って言ってるんだと思ってました。」 「きみもたいがい失礼だな。ぼくは本気だぞ。絵だけ描いていればいいんだよ、きみは。」 「あはは。すみません。でも、これ、仕事じゃないので。」  ここでのやりとりを全く知らない春川ちゃんからこぼれだす笑顔は最強。 「店長に食べてもらいたいんです、俺のケーキ。」  そう言われては。  さすがの咲伯も黙ってしまった。 「味見してもらえますか、冷水さん。」  春川ちゃんが冷水を見る。冷水は落ち着きのない春川ちゃんの様子を少し見てから、 「春川、本気で買い出しに行くつもりならもうすでに遅いくらいですから、そんな時間はありません。」 と言い放った。 ――くーん  仔犬みたいにはしゃいでいた春川ちゃんの尻尾は、たちまち丸まってお腹にくっついてしまった。 「…だから、レーズンの味見は、買い出しから帰ってからにしましょう。」  春川ちゃんの潤んだ瞳がパッと輝く。 「私の車の鍵を取って、先に駐車場へ向かってください。」 「は、はいっ!!…あ、じゃあこのレーズンたち、とりあえずキッチンに…」 「それくらい安堂がするでしょう。」 「あ、あだす!?…まあいいけど。」 「ありがとうございます安堂さん!行ってきます、店長!」  あふれだす笑顔を惜しむことなく振りまいて、春川が地下へとつづく渡り廊下の方へ駆けていく。…やっぱり仔犬みたい。  春川ちゃんを眺めていたら上からばふっと黒い布を被された。冷水のエプロン。 「飲み終わったらここも片しておけよ、安堂。」  あだすがあ!?  言おうとしてエプロンを取り払うと、冷水はあたしの向こうにいる咲伯を見ていた。 「行ってきます、咲伯。」 …冷水の極上の笑顔は、猟奇的なホラー映画に出てくる殺人者のそれに近い。…きれいだけれど。  冷水が廊下に消えたので、あたしはおもむろに咲伯を見た。  さぞ悔しがっているのかしら。  そう思いきや、咲伯は中庭を見たまま、ゆっくりと口の端で「ふふっ」と笑い、こう言った。 「…おもしろくなってきた。」  その様子を見て、私も久々に心がたかぶる。  そうね。  おもしろくなってきたわね。  これは。 ======------→【春川編へつづく】

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