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二章 許処で君が -肆拾玖夜 みかきもり-

 八月第二土曜日、二十三時九分、改札脇の壁画前。時間が時間なため人通りはまばらなその場所で、呆けた顔をしてその男は待っていた。 「……何、してんの」 「……るさい」 「え、何?合宿じゃなくて飲みだったの?あれっ!?…………ま、まさか遠回しにフラれてたとかそういう」 「んなわけあるか……」  ガンガンと痛む頭を抱えて、小野を見上げる。顔面に疑問符を貼付けていたかと思えば、一瞬で青くなった。混乱した様子の小野が気にしている様子は見えないが、受け答えが雑になるのは体調不良のせいだ。  呼び出したのは僕だけれど、本当に来るとは思わなかった。事情を説明しなくてはと思うのに、言わなくてはいけないことが脳内であちこち飛び回ってまとまらない。考えれば考える程熱が上がっていくような錯覚を覚える。これが知恵熱か。違う、そんなことはどうでもいい。  目眩がしてふらついたら、小野が慌てて支えてくれた。わるい、とあやまったと思うけれど、声に出たかはわからない。肩口で僕の頭を受け止めた小野が騒ぐ。 「わぁっ!?どしたの、くさま……っつい!顔熱いよ草町!?熱なの!?」 「みみもとで、じゃべんな……ひびく」  我ながらひどい言い様だ。だが、体内と頭が異様に熱く、腕と爪先が冷房の効き過ぎた車内に長時間いたせいで冷えきっている。夏の夜風がじわじわと凍った手足を融かしていく感覚が心地いい気がするのに、吹き出す汗が気持ち悪い。  要は言葉に気を遣う余裕がない。頭を上げるのもダルくて、そのまま声をひねり出す。 「いえまで、おくって……ください」 「え」  命令形は流石に失礼だと、とって付けた様に頼む。吐き気がないのが救いだが、横になりたくて仕方ない。ダルい。 「、ぅ……?」  一人で立っているより小野に寄りかかっている方が断然楽で、突き飛ばされないのをいいことに肩を借りていたらやんわりと肩を押された。流石に不快だったかと思った時には、ふわりと体が浮く。 「……?」 「スクーターで来ちゃったからスクーターで送るよ?着くまで絶対落ちないでね?寝たら死ぬと思ってね?」  いつもより若干高い視線、規則的な振動。背負われているのだと理解したのは駅を出て星空の下に出てからだった。ほとんど引きずって持って帰ってきた僕の旅行鞄が小野の腹の辺りで揺れる。  人通りの少ない夜中でよかった。流石に昼間の往来で背負われたら恥ずかしい。振動と鼓動と体温とが心地良くて、揺りかごの中の赤子が眠る時はこんな感じだろうかと、とうに記憶にない過去に思いを馳せた。 「草町。くさまちー?起きてる?」  歩く振動ではない揺れに飛んでいた意識を引き戻される。背負い直す様に体を揺らして覚醒を促されたらしい。もう少し微睡んでいたかったが、そうもいかない。 「駐輪場着いたよ。はい、メット」 「……ん」  小野から下りて、受け取ったヘルメットを被る。顎の下で留め具がなかなかハマらずに苦戦していると、小野が手を伸ばしてきて留めてくれた。 「大丈夫?乗れる?」 「……ん」 「ホントかなぁ。モノレールまだ動いてるよね……タクシーの方がいいかな」 「……だ」 「ん?何?」 「れいぼう、やだ……」  今日は何時間も身動きもろくにとれず冷房の効いた所で凍えた。これ以上はごめんだ。 「……はいはい、わかったよ。その代わり、絶っっっ対落ちないでね。あと荷物、自分で抱えるんだよ?できる?」 「ああ……だいじょうぶ、だ」  信用していない目で僕を見る小野を睨み返すと、諦めた様にため息をついて僕の首に鞄をかけた。やれやれ、とでも言いたげな顔に不満を漏らしたかったが、小野の手が離れた自分の荷物を抱えるので手一杯になる。一週間分の着替えと本が数冊入ったそれは地味に重い。  小野の手を借りながらスクーターに跨がり、膝の上に荷物を乗せて自分と小野の体に挟む様に固定する。いつもは座席部分を掴む程度だが、今日は小野の腹のあたりに腕をまわしてしがみついた。 「、……行くよ」 「ん……たのむ」  ゆっくりと景色が流れ始める。いつも以上の安全運転に、ぬるい夜風が心地良かった。 「夏の夜はドライブもきもちいよね!冬は死ぬかと思うけど!」  僕が寝落ちることを心配したのか、小野は少しだけ声を張って話し続けた。運転中の小野に届く声を出す体力は残っていなかったので、口の中で返事をしながらしがみついた腕に時折力を込めて聞いていると伝える。  モノレールの線路を見上げながら大通りをしばらく進み、大きな橋を渡った先の信号が赤になってスクーターが止まる。小野が振り返って僕の顔を覗き込もうとしたのがわかったので顔を上げた。 「大丈夫?ちょっと休憩する?」 「……のど、かわいた」 「マジ?コンビニ寄ってくればよかった。ここら辺に自販機あったっけ」 「かばんのなか……おちゃ、ある」 「あ、そなの?ちょっと公園寄ろうか」  小野がウインカーを付けて、青信号になったY字路を右折する。いくらもしないうちに黒い塊のような公園に着いた。木が多く、街灯がぽつぽつと点在するだけだから、複数の目を光らせた怪物みたいに見える。  荷物を持ってくれた小野がスクーターを下りて押しながら進むのに続く。中に入ってしまえば外から見える程暗くは感じなかった。入ってすぐの背もたれのないベンチ脇に停めている間に、僕は少しでも楽な体勢をとる。腰掛けたささくれ立つ椅子に上半身を預けた。 「わ、大丈夫?そんな辛かった!?」 「……このほうが、らくなだけだ」 「あ、そう……ごめん」  大声に顔をしかめた僕に、小野が小声で謝罪した。やっぱり横になっていた方が楽だ。 「お茶ってペットボトル?」 「ん」  小野が付けっぱなしのヘッドライトの灯りで僕の荷物の中から飲み物を取ってくれる。寝たままでは飲めないから、ゆっくりと体を起こした。キャップを開けてもらったペットボトルから三口程飲む。僕の前にしゃがみ込んでいた小野が一度受け取り、軽めにしめて僕の隣に置いた。鞄を少し漁ったかと思うと、何処かへ歩いて行く。  ペットボトルを倒さない様に気を付けながら、もう一度横になった。夏の夜、どこかでセミが鳴いている。昼間が暑過ぎるから、セミが昼ではなく夜に鳴いているというニュースを見たのは何年前だったろう。 「……ん?」 「タオル濡らしてきた。お泊まりセット、役に立ったね」  ふと、額に触れる冷たさに閉じていた瞼をふるわせた。公園の水道で湿らせたらしいタオルで汗を拭われる。 「ありがとう」 「うん。首とか、拭けるとこは拭いちゃいな」 「ん」  水分を摂って、横になって、汗を拭って、大分楽になった。  夏はまとめられる方が楽だからと、伸ばしっぱなしになっている髪をまとめていたゴムが緩んだ。結い直そうと手を伸ばすと、「オレやるよ」と小野が背後にまわってくれる。  何から何まで至れり尽くせりで普段なら申し訳なくなりそうな状況なのに、熱のせいか素直に受け入れられた。  小休止を挟んで少し元気になった僕を乗せたスクーターがアパートに着いたのは、日付を跨いだ頃だった。駐輪場に停める間に部屋へ向かおうとした僕の手首を掴んだまま、小野は器用に片手で鍵をかけてヘルメットを外して収納する。 「……あるける」 「いいから。階段でふらついたら危ないだろ。もうちょっとだから」  支度が整うと、僕から奪った鞄を首に提げてしゃがみ込む。だだをこねても時間の無駄で、早くベッドに横になりたい僕はしぶしぶながらも再び小野に背負われた。  重くて大変なんだろうけれど、落とさない様にと細心の注意を払っていることがわかる慎重さで一段ずつ上って行くのを振動で感じる。  そんな、壊れ物を扱う様にしなくてもいいのにと思わずにはいられない。行動ひとつひとつから大事だと言われるのは、くすぐったくて仕方ない。  半分閉じた視界で見慣れた緑をとらえた気がして顔を上げる。そこには、一枚の札がちょこんと立てかけられていた。何度か見た、ドアの前にしゃがみ込む小野を連想させる。 「……おの、きてたのか」 「ん?……あれ、飛ばされなかったんだ」  合宿のために約束を守る事ができないと告げた翌日も、その翌日も、会えるのに会いに来ない理由はないと、小野は変わらず僕の家へ通って、好きと一緒に先人のうたを置いて行った。その合宿初日である今日、僕はこの家にいないはずだった。なのに。  苦笑しながら小野がドアの前まで歩き、ゆっくりと屈む。僕が背から下りてちゃんと立ったのを確認すると札を手に取って、笑ったように見えた。泣きそうな顔で。 「もらって……くれる?」  振り返ったその表情に、時々感じるこの違和感はなんだろう。どんどん大きくなっていくそれに、顔を歪める。どうしたら、小野はいつもみたいに笑っていてくれるのだろう。  夜ごとかがり火が燃えるように恋心を募らせては、明ける度に悩み燻っている。  差出されたこのうたのように、小野も惑っているのだろうか。  答えを持たない二人で歩いた先に待つのは何だ。僕は度々立ち止まりそうになるのに、止まる事を恐れる様に小野は僕の手を引いて進む。けれど、感情を飲込んで隠して歩いて何になるんだ。僕は何と向き合えば良い。 「……っ」 「わ」  訳が分からなくなって、八つ当たりのように札をひったくった。小野が驚いて間抜け面を曝している。様を見ろ。  考え過ぎて熱が上がったのか、頭痛がひどくなって視界がぶれた。体の悲鳴は無視して、鞄も奪って脇に付いている小さなポケットから部屋の鍵を取り出す。ファスナーがなかなか開けられなくて手こずった。小野が心配そうに手を出そうとするのを振り払う。  膝をついていた体勢から、鍵を開けるために立ち上がる時に勢いを付け過ぎたのが悪かった。急な上下運動は僕の限界を超えた付加がかかり、立ち上がろうとする意志に反して膝からくずおれる。 血の気が引いていくのをやけに冷静に感じながら、遠く小野が叫ぶ僕の名を聞いた。

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