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三章 呼ぶ声と -捌拾玖夜 たまのをよ-

 九月も半ばを過ぎた頃。十五夜に満月が見られるということで、風流なイベントにかこつけたあきづきによる歌会が催されることとなった。  和歌の真髄は当意即妙にあり、と尤もなことを言い出したのは有川先輩だ。会員は元々歌人ではないからとたっぷり考える時間が与えられていたのだが、即興での歌合わせも面白かろうと開催が決まり、告知されたのは昨日だ。考える時間を与えないためだろう。  告知されてからというもの、随分前から企画自体はあったのだろう手際の良さだった。いつの間にか大学の屋上での活動許可をとっていたし、都心の団子屋に予約までしてあるという。  当日の集合時間三十分前に会場に着くと、そこには畳が六畳敷かれて和食寄りの軽食と飲み物の支度がしてあった。 「あれ、早かったね」 「有川先輩。お疲れ様です」 「うん。お疲れ様。お団子受け取ってきたよ。色々種類があるからたくさんお食べ」 「はあ……」  ちょうど今着いたらしい有川先輩が団子の包みを掲げる。その向こうから、階段を登って来ているらしいあきづきの会員の話し声が聞こえた。本来の集合時間になると、メンバーも集まり歌会の準備も整った。 「こしかたは、みな面影にうかびきぬ、行末てらせ秋の夜の月……それじゃ、始めようか」  有川先輩があきづきの由来となったうたを諳んじて、歌会が始まる。  軽食をつまみながら、おしゃべりの延長で歌題を決めて思い思いにうたを詠んだ。畳に座れず立っている人もいるけれど、僕には燭台の隣に座布団が与えられ、代わりに書記を務めている。  満ちた月がゆっくりと昇っていく。月明かりは思った以上に明るく、照明は数本の蝋燭のみだったが十分だった。  耳ではメンバーの話を聞きながら、仕事の合間に目はぼんやりと月を眺める。予定では二十一時には完全撤収だ。小野は何時頃来るだろうか。千年前から愛でられてきた中秋の名月は美しく輝いて、月光を集めて光る小野の伽羅色を見てみたいと思った。 「お月見してる草町くん、『月』で一首どう?」  サボっているわけではないが、こうして有川先輩から振られれば僕も詠まざるを得ない。 「……淡く笑む、伽羅の円が望み待つ……つみしおもいが、築きしまこと」  秋の円い月が、薄い色の目を思い出させる。見ているもの、願っているものはなんだろう。積み重ね、罪に似て、詰みの気配を感じさせる想いの答えがやけに重い。 「うん……なんかさ、草町君て真面目な康秀みたいだよね」 「は?」 「技巧を凝らしたり、たくさんの意味を含ませてみたり……まあそれもうたの醍醐味だけれど、もっと自由に詠んだらいいのにとも思うよ。綺麗なものは綺麗、好きなものは好きってさ。うたに限った話でもないけど」  有川先輩が言っていることも分かるけれど、それが素直にできていたら、自分の心を理解できていたらこんなに悩んではいない。僕は複雑な人間ではないけれど、かといって分かりやすくもない。  数えきれないくらいたくさん本を読んできたけれど、自分の心を表す言葉を未だに知らない。 「……よく、わかりません」 「君はよく『わからない』と言うけど、本当にそうかな?」  手元にあった視線を上げると、全てを見透かすような有川先輩の目があった。不思議そうな会員たちを気にすることもなく、僕を見据えたままぶれることはない。視界の端で、文月君が似たような顔をしていた。  くたびれた靴は、きっと今もあそこに在る。 「なんとなく、そこに何かがある気がするのに、はっきりとは見えないんです。それが……ひどくもどかしい」 「ふうん……じゃあ、聞いてみたら?『君は何?』って」  君、が指すのは小野か、僕の心か。もしかしたら両方かもしれない。 「はっきり見えない、じゃなくて、近すぎてボケてるのか……あとは無意識に見ないようにしちゃってるのかもね。見えないって思い込んでたら、なんにも見えないままだよ」 「思い込み?」  その発想はなかった。そういえば、答えばかり探してどういった選択肢があるのかまで考えてはいなかったように思う。  あり得る可能性はどれだけあるだろう。手に入れたい未来は、どんなものだろう。 「簡単だと思うけどな。だって、もう君の中に答えはあるだろ?」  笑うと安心した。情けない所を見られても平気だと思えた。手をつなごうと言われても嫌ではなかった。かかる息に体温が上がったのは、小野だけだった。  何度もそうしたように、再び満月を見上げる。円くキラキラと光を集めるあの目を、優しい色の髪を、言葉一つ一つを大事に話す声を、僕を好きだというまっすぐな心を、僕は。 「草町君。もう一首、どうだろう」  どこか満足気な顔をする有川先輩に促されて、気付けた想いを形に、言葉にする。簡単ではないけれど、難しくもない。  素直に、心のまま。まだ少し持て余し気味ではあるけれど、大事にできるように祈りを込めて、声にする。 「望降ち、許処できみが呼ぶ声と……か寄る心に――」  月が中天を過ぎた頃、窓の外にエンジン音を聞いた。電気も付けずに窓際に座り込んで眺めていた月から視線を外して立ち上がる。  玄関を出ると、常夜灯が少し眩しかった。二、三度瞬きしてから廊下を進み、階段を降りる。下りきったところで、小野がこちらに気付いて振り返った。 「草町!どしたの?出迎えなんて……草町?」  スクーターを停めた小野が近寄ってくる。月明かりの銀色の光の中で栗色が小さく跳ねた。 「……おかえり」 「え……う、うん。ただいま?」 「あがってくか?」 「え?」 「茶くらい出す」 「え?あ、うん……おじゃまします?」  先に階段を上がるが、三段程で止まって振り返る。小野が僕を見上げていて、その目に月光が見えた。同じ高さにいては見えなかったそれに満足する。思った通り、とても綺麗だった。 「あ、あー……えっと」  もっと見ていたかったのに、顔を俯けられてしまった。残念に思っていると、急に顔を上げて小野が背後の空を見上げる。 「なんか明るいと思ったら今日満月だったんだね!」  少し焦ったような声音だ。後頭部しか見えないので表情は伺えない。登った数段を降りて隣から見上げると、月を見上げる小野の目は先ほどよりずっときらきら輝いていた。 「あ」 「ん?」  何かに気付いたような、思いついたような顔をした小野が月から僕へ視線を移す。目が合って驚いた後、少しだけ言い難そうな、恥ずかしそうな顔で一度逸らして、また僕を見る。 「あー……月が、キレイですね?」  へにゃ、と笑って、今では使い古された口説き文句を口にする。かつての文豪も、こんなに締まらない顔で使われるとは思わなかっただろう。  僕だって、こんな安くされた言葉に赤面する日が来るとは思わなかった。  肯定も、いつかの小説家の言葉を借りることもできずにいると右手を握られる。びくりと体が反応するけれど、繋がった手を視認したまま振り払うことも出来ずに固まってしまう。  呼吸の仕方がわからなくなる。心臓がうるさくて苦しい。 「草町?」  すぐ傍で名前を呼ばれて、我慢できずに踵を返して階段を駆け上がる。手は繋がれたままで、引っ張るように部屋の前まで来てドアを開けた。  部屋に上がったはいいものの、照明を点けたら顔が赤いことがバレてしまう。月が明るかったからもう手遅れかもしれないが、直視されるなど耐えられない。居間の手前で立ち止まってそこから動けなくなった。  背後でごそごそと動く気配がある。少しだけ手が引かれて、月明かりもほとんど届かない暗がりで向き合った。 「はい」  差し出される想いを、ようやく少しだけ理解できた気がする。握ったままの手が熱いけれど、それが体温の高い小野のせいなのか、心臓が早鐘を打つ自身のせいなのか判然としない。  忍ぶ恋を誰かに悟られるくらいなら、いっそ消えてしまいたい――叫ぶような激情のうたを震える手で受け取った。自分の中の感情をまだ上手く制御できず整理もままならない中で、知らなかった己の中の激情とその名を知る。  同時に、ひどく不安になる。なんて高慢で、手前勝手な感情だろうと思うのに止まらない。  僕のことを好きだと言う小野。ずっと友達でもいいと言う小野。もし……もしも、百夜通いが途中で失敗したら。百夜通う前に、小野の気持ちが冷めてしまったら。 「草町?どうした……?悲しいことでもあった?」  途中で失敗したら、きっと小野はごめんと言って僕の友達になるんだろう。自分の気持ちをちゃんと示せなかったと寂しそうに笑って。  小野の気持ちが冷めてしまったら……そんなこと、考えたくもない。  もう、僕はこんなにも、彼に惹かれている。

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