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四章 か寄る心に -玖拾弐夜 わがそでは-

 所々雲が浮かぶ空に立ち待ち月が昇る。小さなベランダで手すりに体重を預けながら、時折朧ろに霞むそれを眺めた。  静かな住宅地から聞き慣れた排気音が運ばれてくる。見上げていた月から視線を落とせば、駐輪場にスクーターを停める小野がチラリと見えた。  角度の問題でベランダから駐輪場はほぼ死角だ。彼が着くまでと決めていた短い月見を終えて、部屋の中へ戻ろうと踵を返した瞬間、小野と目が合った。僕の鈍い体は止まりきれずに部屋の中へ入る。  目が合うなんて思っていなかった。立ち止まってこちらを見上げているなど想定外もいいところだ。小野だって、あそこからこちらがほとんど見えないことは知っているだろうに。  なんとも居心地の悪い気分で立ち竦んでいると、呼び鈴が鳴る。慌てて窓を閉めて玄関に向かった。 「コンバンハ」 「……こんばんは」 「おじゃまします」 「…………いらっしゃい」  帰れと言う訳にもいかずに中へ招き入れる。二人分の麦茶をちゃぶ台に置くと、ありがとうと小野が一口飲んだ。 「今日、バイト早朝からなんだけど、ここで仮眠して行っていい?」  三ヶ月前、頑なに拒んでいた人間の台詞とは思えない。断る理由がないではないが、追及されてもはっきりとは答えられないので受け入れる他なかった。 「今日は夜食になりそうなものがないけど」 「いいよ、コンビニ寄るし。あ、コンビニまでデートする?」  言葉の端々にトゲを感じるのは気のせいだろうか。特に今必要なものはないからと遠回しに断っても、元から本気で言ってはいなかったのかすぐに引き下がる。 「今日も新しい本借りてきたの?」 「うん」 「ホント好きだね。なのに、読まずに待ってたの?」  世間話の延長で核心を衝かれてとっさに反応できない。何を、としらばっくれることもできたはずだが、妙な間を置いてしまったのでもう無理だ。  麦茶が入ったコップを持つ手に嫌な汗をかく。揺れる波紋から目が離せない。何か、不興を買うようなことをしただろうか。こんな風に逃げ道をふさいでまで探られたことなど、今までなかった。 「なんか、最近ヘンじゃない?」 「変?」 「目、合わせてくれなくなった」 「っ、」  指摘されて咄嗟に顔を上げたけれど、結局小野のまっすぐな目に堪えかねて視線を逸らす。ほら、という小野の顔が視界の端で少し寂しげに翳った。 「オレ、なんか怒らせるようなことした?」 「……してない」 「でも、なんかあったんでしょ?」  あったと言えば、確かにあった。  小野に対する感情が恋だと、気付いた。それは僕の中でとても大きな驚きであり、変化だった。  持て余したその未知の感情の処し方が、いくら考えてもわからない。宙ぶらりんなままのそれを何処へ下ろせばいいのか探す様に、視線は地をさ迷って小野の目を見ようとしない。小野の綺麗な目を見ていたくとも、何?と聞かれたら好きだと答えそうで見ていられなかった。  言っても構わないのではとも思ったけれど小野を前にしてそれが言えるかというと、これがなかなかどうして難しい。衝動のまま口が滑りそうになるのと、言おうと思って小野に向き合うのは使う気力が全く違う。自覚して三日かそこらで、気持ちを告げるのは諦めた。僕には無理だ。  それからはなるべく視界に入れないように、僕からは近づかないようにしていた。それでも、大学では無意識に探す癖がつきそうになっていて困っている。 「……大丈夫だ。何でもない。ベッド使っていいからな」  逃げるように台所へ向かう。お茶のおかわりを注いで、小野も要るかと聞こうとした。 「オレにも言えないこと?」  振り返ろうとしたタイミングで聞かれて、体が動かなくなる。コップの中の麦茶にほんの少しだけ伸びた前髪と額が映り込んでいた。僕は今、どんな顔をしているのだろう。 「……小野には、言えないことだ」  言わないのではなく、言えない。僕が臆病で、度胸がないから。気付くことを怖れ、自覚すれば言葉にすることが怖い。  自分から現状を壊せないのなら、いつも通りに振る舞って維持するしかない。元から表情筋などろくに仕事をしていないのだから大丈夫だ。 「おかわり、要るか?」 「……うん」  一瞬傷付いた顔をしたような気がするが、俯き気味に顔を逸らされてしまった。一抹の寂しさを覚えても、その資格はないように思う。自惚れと笑われるかもしれないが、小野にそういう顔をさせるのは大概僕だ。 「……草町?」  小野のコップにおかわりを注いで、壁に背を預けて座る小野の隣に腰かけた。特に理由はなく、近くに居たかっただけだ。正面だと色々と見えすぎて困るから隣がいい。 「どしたの?」 「別に。なんとなく」 「なんとなくって」 「……小野が、変な顔してたから?」 「え……変な顔、してた?」  顔を擦る小野は普段と変わらないように見える。いつも通りのその下にどんな感情を隠しているのか分からないのはお互い様だ。 「!……もう寝るか?」 「ううん。くっついてたいだけ」  予告なく肩に重みを感じて驚いた。慣れたと思った体温は、再び僕を戸惑わせている。  本も読まずに小野の枕代わりになっているこの時間を、何と称したものだろう。足を伸ばしているから、痺れたと逃げることもできない。決して、逃げたいわけではないけれど。 「ずっと、こうしてたいな……」  小さな小さな声で紡がれる、切ない願い事。僕は、叶えてあげられるのだろうか。  せめて小野がもういいよと言うその日まで、傍で寄り添うことを許してほしい。目を閉じて、気付かれないようにそっと小野の髪に頬を寄せた。 「……しまった、超離れがたい」  擦りよったのがバレたのかと思ったが、ただ言葉通りだったらしくうりうりと額を肩に押し付けられる。勢いをつけて離れると、鞄を漁って戻ってきた。 「お納めください」 「はあ、どうも」  僕には返せるものがないから一方的だけれど、名刺のやり取りのように札を受け取る。  海の中ならどんなに泣いても誰かに知られることはない。秘めた恋のうた。  そういえば、目の前の男が泣くところを見たことはない。そうそう他人の泣くところに出くわすものではないけれど、人知れず泣くこともあるのだろうか。 「……泣く時は、見えるように泣いてくれ」  右手を伸ばして頬を包み、見えない涙を拭うように指を這わせた。驚いたように見開かれた伽羅を美しいと思う。甘く溶けたそれは瞼に隠され、代わりに熱い手が僕のそれを包んだ。 「――ん」  短く答えた小野の顔が、何故か泣き笑いに見えた。

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